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「永井荷風という生き方」(松本哉・集英社新書・2006年)

2008年2月5日(火)晴
 「永井荷風という生き方」(松本哉・集英社新書・2006年)読了。先月、私は「現代日本文学史」(第二章・高橋春雄・笠間書院・1988年)を読み、大逆事件が転機となって荷風の「江戸戯作者」風・耽美主義が形成されたように書いた(1月22日)が、この本の著者・松本哉によれば、それよりずっと以前から、荷風の「世捨人願望」はあったとのことである。<たとえば、数学が駄目で高等学校の入学試験には絶対受からないとあきらめていた荷風の少年時代(明治30年、満17歳の頃)、絶望のあげくにつかんだ希望の光が次のようなものだった。『小説家、音楽家、壮士役者、寄席芸人なぞ、正当なる社会の埒外に出て居る日陰者の寧ろ気楽な生活』(『紅茶の後』の「九月」)音楽家や寄席芸人を日陰者と呼んでは、今では叱られてしまうだろうが、ここで荷風は、高級官僚と比較して小説家以下それらのものを日陰者と呼び、そこに言い知れぬ居心地の良さを感じただけである。そして荷風がこの文章を発表したとき、日陰者どころか、大学教授であり、「三田文学」の主宰者として華々しく活躍していた。しかも徹底的に日陰に逃げ込もうとする態度を崩さず、逃してなるものかという熱心な追っかけ者(愛読者)をつかみ取っていったのである。有名な次のひと言など、たまらない名言だ。『もともと自分は自己を信ずる事のできぬ者である。自分は今までに一度びたりとも世間に対して厚かましく何事をも主張したり教えたりした事はない。自分は唯訴えたばかりだ。泣いたばかりだ』(『倦怠』明治43年5月、満30歳)>(192~3頁)
 心の中に「世捨人願望」をもち、表面的には「日陰者」(小説家・戯作者)を装いながら、実質的には「高級官僚」と大差ない「選良」(エリート・有産者・大学教授)の生活を送っていたではないか、という問題提起が感じられた。その指摘は当然といえば当然、だが、荷風に限ったことではないだろう。およそ「知識人」とは、そう呼ばれるだけですでに「日陰者」の条件を失ってしまうのだから。
 さて、私の関心は「永井荷風という死に方」の方である。<死ぬのを見ていた人もいないから、報道記事を読んでさまざまに想像するだけであるが、ときどき荷風の身になって死の瞬間を考えてみたりしないことはない。自分が今死ぬというときはどんな感じなのだろう。すべてが終ってしまうということが生きている人間には想像できないから始末が悪い。日記を見ると、亡くなる二カ月前に次のような記事がある。「〔昭和三十四年〕三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自働車を雇い乗りて家に帰る」それまでは毎日浅草へ行くのが日課だったが、この日を境に、電車に乗ってどこかへ行くことがなくなったのである。>(214~5頁)そして、4月30日、荷風は自宅で病死(孤独死)した。まさに二カ月間、彼は「入院治療を受けることなく」闘病したのである。その経過は「断腸亭日常」に詳しく記されていない。「死ぬ」とは、そういうことなのだということを、私は実感する。動けない、書けない、食べられない、その「積み重ね」が「死ぬ」ということではないだろうか。(荷風の場合、死の前日まで食べることはできたが・・・)いずれにせよ、人間は動物であり、他の動物が死ぬように死ぬことが肝要である。何もしないでじっと待つ。そうすれば、少なくとも二カ月で「死ねる」ということがわかった。「余命半年」などと診断されながら、その間、投薬、点滴、人工呼吸、心臓マッサージ等々、無用な延命治療に「専念」するケースが多いようだが、どんな意味があるのだろうか。大切なことは、残された「半年」をどう生きるか、ということだと思う。識者によれば、「人間は、その人が生きたように死んでいく」(生き様イコール死に様といえる)ものだそうである。銘記すべき名言だと、私は思う。
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永井荷風という生き方 (集英社新書)永井荷風という生き方 (集英社新書)
(2006/10/17)
松本 哉

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