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「日本の名随筆・演歌」

2008年1月30日(水)晴
 「日本の名随筆・演歌」(天沢退二郎編・作品社・1997年)読了。宮沢賢治の「歌妓」、萩原朔太郎の「流行歌曲について」を筆頭に、以下、竹中労、池田弥三郎、見田宗介、五木寛之、小泉文夫、新藤謙、井上ひさし、清水邦夫、寺山修司、筒井康隆、富岡多恵子、鶴見俊輔、大岡昇平、村松友視、中上健次、浅川マキ、竹西寛子、天沢退二郎、色川武大、諸井薫、橋本治、中野翠、久世光彦、山折哲雄、四方田犬彦といった面々の「名随筆」が編まれている。著者は、詩人、小説家、評論家、哲学者、演出家、学者など様々な分野の「著名人」であり、ひとり浅川マキだけが歌手として参加している。浅学のため未知の著者も多かったが、作物全体を通して、いくつかの「共通点」が感じられた。「演歌」(流行歌・歌謡曲)がテーマであるにもかかわらず、それと正面から向かい合う姿勢で綴られたものは少ない。編者自身、「あとがき」で「『演歌』は、(略)感情的真実へのあまりといえばあんまりな密着性によって、しばしば低俗と見なされ、知識人や高級音楽愛好者が眉をひそめて軽侮の色をかくさないのは、それなりに故なしとしないのであろう」と述べているように、知識人である著者の面々には、「その低俗とは距離をおきたい」「単なる演歌愛好者だと思われたくない」といった無意識がはたらいているのだろうか。(低俗な)「演歌」とは別の(高級な)「知識」を引き合いに出しながら(ひけらかしながら)、それを強引に(無理矢理)「演歌」に結びつけようとする傾向が感じられた。歌手・浅川マキの作物以外、ただ一編を除いては・・・。その一編とは、詩人・萩原朔太郎の「流行歌曲について」である。冒頭部には「現代の日本に於ける、唯一の民衆芸術は何かと聞かれたら、僕は即座に町の小唄と答えるだろう。現代の日本は、実に『詩』を失っている時代である。そして此所に詩というのは、魂の渇きに水をあたえ、生活の枯燥を救ってくれる文学芸術を言うのである。然るに今の日本には、そうした芸術というものが全くないのだ。文壇の文学である詩や小説は、民衆の現実生活から遊離して、単なるインテリのデレッタンチズムになって居るし、政府の官営している学校音楽というものも、同じように民衆の生活感情と縁がないのだ。真に今日、日本の現実する社会相と接触し、民衆のリアルな喜怒哀楽を表現している芸術は、蓄音機のレコード等によって唄われている、町の流行歌以外にないのである。僕は町を歩く毎に、いつもこの町の音楽の前に聴き惚れて居る」と、書かれている。野口雨情は措くとして、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー、藤浦洸といった作詞家は、もともと「詩人」を目指したが、こと志に反して「やむなく」流行歌の世界に身を置くはめになったのかも知れない。しかし、詩人・萩原朔太郎は、その作詞家の作品に「聴き惚れて居る」ことを白状している。そのことが、大変おもしろかった。
 以下は、昔、綴った私の「迷随筆」二編である。

「異国の丘」
 静岡市を流れる安倍川、その上に架かる安西橋の両側には、欄干がなかった。四~五メートルごとに石の柱は残っていたが、柱と柱をつなぐ「横棒」は鉄製のため、兵器工場に徴発されたのだろう。祖母は、病みあがりの私を乳母車に乗せて、その橋を注意深く渡り始めた。五歳の私が、生死をさまよった「疫痢」から辛うじて快復し、治療に使ったリンゲルの注射器を、河原に捨てに来た帰り道のことである。
真夏の炎天下、橋の上を通る人や車は、皆無だった。だが、ちょうど中間点に来たとき、向こうから、一人の少年が「跳んで」来るように見えた。少年の姿は、だんだん大きくなってくる。よく見ると、少年は「跳んで」いるのではなかった。松葉杖をついて、懸命に歩いていたのである。頭、顔、上半身、汗にまみれ、薄汚れた半ズボンの下には、膝から切断された右足がむきだしのまま、ぶら下がっていた。私たちは目を合わせることなくすれ違い、無言のまま帰宅した。床の間のある八畳間で、祖母は、何事もなかったようにラジオのスイッチを入れる。雑音に混じって途切れ途切れに聞こえてきたのは、「異国の丘」(増田幸治作詞・吉田正作曲・昭和二四年)のメロディーだった。「今日も暮れゆく異国の丘に 友よ辛かろ切なかろ 我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る 春が来る」まだ五歳だった私に、歌詞の意味などわかるはずがない。ただ、愁いを帯び、どこか悔恨の気持ちを秘めた男の歌声だけが、私の胸裏に刻印されたことはたしかである。「イコクノオカって何?」と問いかける私に、祖母は弱々しく笑って、床の間の掛け軸を指差した。そこには、槍の先のように鋭くそびえ立つ絶壁(水墨山水画)が描かれていた。「ふうーん・・・」と言って見つめる私を祖母がどう感じたか。すでに、私の母は、昭和二十年、異国・満州で他界していたのである。
 掛け軸は人手にわたり、山水画を二度と見ることはできないが、「異国の丘」のメロディーに触れるたび、槍の先のように鋭くそびえ立つ絶壁の情景が目に浮かぶ。「異国の丘」は、敗戦で異国に抑留された兵士たちの「祖国帰還」をテーマにしているが、私には、竹山逸郎・中村耕造の歌声が、、散華した友への鎮魂、生還する自分自身への悔恨、懺悔を伝えようとしているように思われてならない。
 幼い日の真夏、はじめて耳にした大人の流行歌「異国の丘」が、実は、極寒の地における「春を待つ歌」であることは後年知ったことだが、還暦を過ぎた現在、あの松葉杖の少年、掛け軸の山水画、そして「戦争」のことが頭から離れないのである。                                                                               (2006.12.31)
二葉あき子の歌唱力
 二葉あき子の歌を聴いたことがあるだろうか。私が初めて彼女の歌を聴いたのは「夜のプラットホーム」(奥野椰子夫作詩・服部良一作曲・昭和21年)であった。昭和26年2月,当時6歳だった私は,父と祖母に連れられ,住み慣れた静岡から東京に向かうことになった。静岡には母の実家があった。満州で生まれた私は,すぐに母を亡くし,入隊した父とも別れ,父の友人一家の助力で命からがら日本に引き揚げてきたらしい。母方の祖母が営む下宿屋には,東京から疎開してきた父方の祖母も身を寄せており,しばらくはそこで暮らすことになったようだ。やがて父も引き揚げ,私自身が学齢になったので父の勤務地である東京に,父方の祖母ともども呼び寄せられたのである。静岡駅で東京行きの列車を待っていると,下りのホームにアメリカ兵が鈴なりになって乗っている列車が入ってきた。彼らは,上りのホームで待っている私たちに向かい,大きな叫び声をあげながらチョコレート,キャラメル,チューインガム,ヌガーなどの高価な菓子類を,雨あられのように投げてよこした。上りホームの日本人たちも,歓声をあげて一つでも多く拾おうとする。見送りに来た親類の一人が,ヌガーを一つ拾ってくれた。東京行きの列車の中で,それを食べたが,その豪華な味が忘れられない。甘いものといえばふかし芋,カルメ焼きぐらいしかたべたことがなかった。チョコレートでくるまれた生クリームの中にピーナツがふんだんに入った,贅沢な逸品であった。アメリカ人はなんて優雅なくらしをしているのだろう,子ども心にそう思ったのを今でも憶えている。
列車が東京に近づく頃は,もう夜だった。横浜を過ぎた頃,車掌がやって来て,「東京駅構内で事故が発生しました。この列車は品川止まりになります」という。乗客には不安が走った。今日のうちに目的地まで行き着くことができるだろうか。降り立った品川駅のホームはトンネルのように暗かった。「シナガワー,シナガワー,ケイヒントーホクセン,ヤマノテセン,ノリカエー」という単調なスピーカーの声とともに,厳冬の夜,凍てつく寒気の中に柱の裸電球が一つ,頼りなげに灯っていた情景が瞼にに焼きついている。
二葉あき子の「夜のプラットホーム」を聴くと,あの品川駅での情景がきのうのことのように甦ってくるのである。なぜだろうか。それは,彼女がおのれを殺して,全精力を歌心(曲想)に傾けて表現するという,たぐいまれな歌唱力を身につけているからだと思う。「星は瞬く,夜深く,鳴りわたる,鳴りわたる,プラットホームの別れのベルよ」という彼女の歌声を聞いて,私は「本当にそうだった」と思う。6歳の私が初めて見た「夜のプラットホーム」は品川駅をおいて他にないのだから。「さようなら,さようなら,君いつ帰る」とは,静岡駅で私を送り出してくれた,心やさしき人々の言葉に他ならなかった。もしかしたら朝鮮戦争に赴くアメリカ兵の言葉だったかもしれない。本来,この歌は戦前,若い出征兵士を見送る,東京駅の情景を見て作られたという。「いつまでも,いつまでも,柱に寄り添い,たたずむ私」という恋人や新妻の気持ちがどのようなものだったか。戦争とは無縁であった私ですら,あの心細い品川駅での情景を思い出すくらいだから,戦死した夫や恋人を追憶する女性の寂寥感は想像に難くない。彼女が大切にしているのは,歌手としての自分の個性ではなく,作詩・作曲者が創り出した作品そのものの個性である,と私は思う。いわゆる「二葉あき子節」など断じて存在しない。彼女が歌う曲は,クラッシックの小品,ブルース,ルンバ,シャンソン,映画主題歌,童謡,軍歌,音頭,デュエットにいたるまでとレパートリーは広く,多種多様である。しかも,その作品ごとに,彼女の歌声は「千変万化」するのである。作品を聴いただけでは,彼女の歌声だとは判別できないものもある。ためしに,「古き花園」(サトウハチロー作詩・早乙女光作曲・昭和14年)「お島千太郎旅唄」(西条八十作詩・奥山貞吉作曲・昭和15年)「めんこい仔馬」(サトウハチロー作詩・仁木他喜雄作曲・昭和15年)「フランチェスカの鐘」(菊田一夫作詩・古関裕而作曲・昭和23年)「水色のワルツ」(藤浦洸作詩・高木東六作曲・昭和25年)などを聴き比べてみれば,わかる。
「フランチェスカの鐘」は,もともと失恋した成人女性の恨み歌であったが,後年,二葉あき子は初老を迎えた自らの変声を生かしし,故郷の被爆地・広島で犠牲になった人々への鎮魂歌として創り変えている。(LPレコード「フランチェスカの鐘・二葉あき子 うたのこころ・昭和42年)                 
私は彼女の歌を聴いただけで,誰が,どこで,何をしながら,どんな気持ちで,何を訴えたいかをストレートに感じとることができる。彼女の歌唱力は,曲の舞台を表現する。登場人物の表情・心象を表現する。そして,情景を構成する気象,風景,星,草花,ハンカーチーフまでも表現してしまうのである。
 いつになっても,作品の中の彼女の声は澄みきっている。二葉あき子の地声ではなく,作詩者,作曲者が思い描いた歌手の声,登場人物の声に徹しようと努めているからである。流行歌は三分間のドラマだといわれるが,彼女ほどそのドラマを誠実に,没個性的に演じ分けた歌手はいないだろう。それが他ならぬ二葉あき子の「個性」であり,「今世紀不世出の歌手」といっても過言ではない,と私は思う。(2004.5.15)
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