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平均寿命の短縮・《「死にたい人々」の権利》

2008年10月25日(土)〈64歳〉 雨
 今日で私は64歳になった。「もう、思い残すことはない。いつ、死んでもいい」という気持ちになれるかどうか。なれる、とは断言できないが、「これから先、生きてみたって、どうってことはない」という、妙に白けた気持ちにはなっている。言い換えれば、「生きることに興味を失った」というか、(平忠盛が言ったように)「見るべきは見つ」というか、要するに「生きる」ことよりも「死ぬこと」の方に惹かれる、ということである。「長生きすればいいというものじゃない」とは、誰もが思っていることであろう。日本人の平均寿命が延びたことによって、国民が「幸せ」になったとは、とうてい思えないからである。むしろ、「死ぬに死ねない」国民(後期高齢者とか、お年寄りとか呼ばれている人々)が「うようよ」としている状態で、日本社会は「老醜」化とでもいおうか、「不幸」への道を転がり落ちているように感じる。では、どうすればよいか。平均寿命を「短縮」することである。「死ぬに死ねない」人々をなくすことである。「死にたい人々」を、(希望通り)死なせてあげることである。具体的には、「死にたい人々」に対して、①余計な「延命治療」を行わないこと、②余計な「介護」を行わないこと、が大切だと思う。「延命治療」や「介護」は、「生きたい人々」のために行う方策である。「生きたい人々」が「延命治療」や「介護」を望み、その結果、「地獄の苦しみ」を味わうことは「自由」であり、当然の権利(基本的人権)である。同様に、「死にたい人々」が、「延命治療」や「介護」を拒否し、「安らかな死」(安楽死)を望むことも、当然の権利(尊厳死)と言わなければなるまい。だがしかし、前者の権利は、その人の意思とはかかわりなく、「義務化」(延命治療、介護は、死への過程の中で「受けなければならない」、言い換えれば「病院で死ななければならな」、さらに言えば、死ぬための「医療費」「介護費」を支払わなければならない、もし自宅で「金もかけずに」死のうものなら、「変死」扱いとして警察の捜査対象になりかねない、という状態に)させられているのが現状である。後者の権利は全く認められておらず、その遂行を支援しようものなら、たちまち「殺人罪」の容疑者として拘束されるだろう。どう考えても私には、「医療」「介護」関係業者の「特権乱用」(暴利独占)を許容・推進するための「裏社会がある」としか思えないのである。そこで提案したいのだが、①「死にたい人々」の意思を尊重し、「自分はいつ死んでもよい」という「登録制度」を設けてみてはどうか。現在、死後の「臓器提供」を申し出るドナー登録、「死体提供」を申し出る「献体」制度が設けられている。同様に、疾病・事故などにより「危篤状態に陥った場合には、放置してもらいたい」という意思を、あらかじめ登録しておくのである。その結果、図らずも「生還」したが、これまで以上の苦しみを背負って「生きなければならない」といった事例が激減するのではないだろうか。②「死にたい人々」に対して、公的機関が「安楽死」を執行する制度を設けてみてはどうか。現在、裁判で「死刑判決」を言い渡された被告人に対して、公的機関(法務省)は「合法的」に「締死刑」を執行している。同様に、自死を望む人々に対して、「最も苦痛の少ない方法で」(瞬時に死ねる、できれば跡形もなく消滅する方法で)「安楽死」を執行するのである。その結果、「死にたいのに死ねない」人々の数は激減し、平均寿命は大幅に短縮されるかもしれないのである。
 とはいえ、私は「死ぬこと」を賛美・奨励しているわけではない。「生きようとすること」も「死のうとすること」も、その人の「自由」であり、その意思を尊重することが「基本的人権」として守られなければならない、と思っているだけのことである。。
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僕に死ぬ権利をください僕に死ぬ権利をください
(2004/04/25)
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