FC2ブログ

永井荷風・「榎物語」

2008年2月23日(土)晴(午後から強風) 「榎物語」(永井荷風・昭和6年)読了。大変おもしろかった。解説(竹盛天雄・「岩波文庫」)によれば、「大正から昭和への転換期においても、荷風の文業は、随筆が主であって小説制作は依然下降をつづけている。ようやく復活のきっかけをつかむのは、一九三一(昭和六)年、『あぢさい』『榎物語』につづいて『つゆのあとさき』を発表、好評をもって迎えられてからである。この頃の荷風は、文体のうえでも反時勢を意識し、『夜の車』『かたおもひ』などでは雅俗折衷体の古めかしいスタイルをこころみている。『榎物語』が候文体による遺書形式をとっているのも、そのあらわれに他ならない」。候文体による遺書形式の書き出しは、「愚僧儀一生涯の行状、懺悔のためその大略を此に認め置候もの也。愚僧儀はもと西国丸円藩の御家臣深沢重右衛門と申候者の次男にて有之候。不束ながら行末は儒者とも相なり家名を揚げたき心願にて有之候処、十五歳の春、父上は殿様御帰国の砌御供廻仰付けられそのまま御国詰めになされ候に依り、愚僧は芝山内青樹院と申す学寮の住職雲石殿、年来父上とは昵懇の間柄にて有之候まま、右の学寮に寄宿仕り、従前通り江戸御屋敷御抱えの儒者松下先生につきて朱子学出精罷在候処、月日たつにつれて自然出家の念願起り来たり、十七歳の春剃髪致し・・・」という調子で、漢字の多いこと、一文の長いことになじめず、放り出そうと思ったが、「やがて愚僧二十歳に相なり候頃より、ふと同寮の学僧に誘われ、品川宿の妓楼に遊び仏戒を破り候てより、とかく邪念に妨げられ、経文修業も追々おろそかに相なり、果は唯うかうかとのみ月日を送り申候」という辺りから、さらに読み進めようという意欲がわいてきた。内容は、東京世田谷にある満行寺住職・釈良乗の懺悔録である。住職といえば仏に仕える身、さだめし高潔な道徳が述べられていると思えば、さにあらず、学寮を抜け出して遊蕩の帰り、武家の争いに遭遇、百両という大金を手にする。邪念が起きて、そのまま遁走、途中で出会った仲間の学僧に見とがめられ、その百両の奪い合いで相手を殺してしまった。しかし、幸か不幸か、何とか逃げ延びることができたばかりか、親切な仏僧に見込まれてその寺の住職におさまったという話。「榎物語」の榎とは、「ねこばば」した百両の「隠し場所」であったのだ。 候文体による遺書の内容としては、あまりにも低俗、住職といえども「煩悩の塊である」という眼目が、実におもしろかった。前出の解説では、「この作品について正宗白鳥が『文芸時評』で『荷風全集中に収めても、最も傑れたものの一つ』と称賛したこと、さらに谷崎が白鳥の『感動』について、それは『一にあの簡略な、荒筋だけを述べている書き方に由来する』(『春琴抄後語』)と注釈をくわえたことは有名だ。なかなか興味深い問題である」と述べられている。文体・形式の面で、森鴎外の影響を受けていることも間違いないだろう。
春琴抄―附・春琴抄後語 (1954年) (角川文庫)春琴抄―附・春琴抄後語 (1954年) (角川文庫)
(1954)
谷崎 潤一郎

商品詳細を見る
にほんブログ村 その他日記ブログ 60代以上 日々のできごとへ

「永井荷風という生き方」(松本哉・集英社新書・2006年)

2008年2月5日(火)晴
 「永井荷風という生き方」(松本哉・集英社新書・2006年)読了。先月、私は「現代日本文学史」(第二章・高橋春雄・笠間書院・1988年)を読み、大逆事件が転機となって荷風の「江戸戯作者」風・耽美主義が形成されたように書いた(1月22日)が、この本の著者・松本哉によれば、それよりずっと以前から、荷風の「世捨人願望」はあったとのことである。<たとえば、数学が駄目で高等学校の入学試験には絶対受からないとあきらめていた荷風の少年時代(明治30年、満17歳の頃)、絶望のあげくにつかんだ希望の光が次のようなものだった。『小説家、音楽家、壮士役者、寄席芸人なぞ、正当なる社会の埒外に出て居る日陰者の寧ろ気楽な生活』(『紅茶の後』の「九月」)音楽家や寄席芸人を日陰者と呼んでは、今では叱られてしまうだろうが、ここで荷風は、高級官僚と比較して小説家以下それらのものを日陰者と呼び、そこに言い知れぬ居心地の良さを感じただけである。そして荷風がこの文章を発表したとき、日陰者どころか、大学教授であり、「三田文学」の主宰者として華々しく活躍していた。しかも徹底的に日陰に逃げ込もうとする態度を崩さず、逃してなるものかという熱心な追っかけ者(愛読者)をつかみ取っていったのである。有名な次のひと言など、たまらない名言だ。『もともと自分は自己を信ずる事のできぬ者である。自分は今までに一度びたりとも世間に対して厚かましく何事をも主張したり教えたりした事はない。自分は唯訴えたばかりだ。泣いたばかりだ』(『倦怠』明治43年5月、満30歳)>(192~3頁)
 心の中に「世捨人願望」をもち、表面的には「日陰者」(小説家・戯作者)を装いながら、実質的には「高級官僚」と大差ない「選良」(エリート・有産者・大学教授)の生活を送っていたではないか、という問題提起が感じられた。その指摘は当然といえば当然、だが、荷風に限ったことではないだろう。およそ「知識人」とは、そう呼ばれるだけですでに「日陰者」の条件を失ってしまうのだから。
 さて、私の関心は「永井荷風という死に方」の方である。<死ぬのを見ていた人もいないから、報道記事を読んでさまざまに想像するだけであるが、ときどき荷風の身になって死の瞬間を考えてみたりしないことはない。自分が今死ぬというときはどんな感じなのだろう。すべてが終ってしまうということが生きている人間には想像できないから始末が悪い。日記を見ると、亡くなる二カ月前に次のような記事がある。「〔昭和三十四年〕三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自働車を雇い乗りて家に帰る」それまでは毎日浅草へ行くのが日課だったが、この日を境に、電車に乗ってどこかへ行くことがなくなったのである。>(214~5頁)そして、4月30日、荷風は自宅で病死(孤独死)した。まさに二カ月間、彼は「入院治療を受けることなく」闘病したのである。その経過は「断腸亭日常」に詳しく記されていない。「死ぬ」とは、そういうことなのだということを、私は実感する。動けない、書けない、食べられない、その「積み重ね」が「死ぬ」ということではないだろうか。(荷風の場合、死の前日まで食べることはできたが・・・)いずれにせよ、人間は動物であり、他の動物が死ぬように死ぬことが肝要である。何もしないでじっと待つ。そうすれば、少なくとも二カ月で「死ねる」ということがわかった。「余命半年」などと診断されながら、その間、投薬、点滴、人工呼吸、心臓マッサージ等々、無用な延命治療に「専念」するケースが多いようだが、どんな意味があるのだろうか。大切なことは、残された「半年」をどう生きるか、ということだと思う。識者によれば、「人間は、その人が生きたように死んでいく」(生き様イコール死に様といえる)ものだそうである。銘記すべき名言だと、私は思う。
にほんブログ村 その他日記ブログ 60代以上 日々のできごとへ




永井荷風という生き方 (集英社新書)永井荷風という生き方 (集英社新書)
(2006/10/17)
松本 哉

商品詳細を見る
スポンサードリンク


リンク
最新記事
最新コメント
カテゴリ
プロフィール

冬蜂紀行

Author:冬蜂紀行
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる