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九十九里・太陽の里・「劇団勇舞」

2008年7月22日(火) 晴
 放浪の旅に出立。インターネットで購入した旅行用鞄(キャスター付き・17リットル容量)は、使い勝手が大変よい。ほとんど「持ち上げる」必要がないので、取っ手部分を「杖代わりに」押しながら運べるという点が優れものだと思う。駅のコインロッカー・「小」規格(300円程度)にも収納できるので、便利である。
 午後1時30分から、九十九里・太陽の里で大衆演劇観劇。「劇団 勇舞」(座長・南條龍法)。座員は、二代目・中村時太郎、若手・ミナミヒメヤ、女優・ツシマミヤビ、一條ミユキ、子役・三条キラ、マスコット・ベビー時丸といった面々で、実力は「水準」並というところであろうか。芝居や歌謡ショーで使われる「音楽」が、洋風(ミュージカル風)、「今流」というところが特徴的であった。芝居の外題は「仇討ち友よ」、竹馬の友であった一馬(中村時太郎)と新三郎(ミナミヒメヤ)は、今では仇同士、一馬が新三郎の父親を斬殺したためである。新三郎は一馬を討ち取り、「御家再興」を図らなければならない。ようやく箱根山中で馬子に身をやつした一馬を見つけ、討ち果たそうとするが、馬子の元締め(南條龍法)に止められる。「茶店のあるじ(ツシマミヤビ)に食べ物を施されるまでは、行き倒れ寸前だった。その恩返しをしないうちに仇討ちなどすることは許せねえ」しかし、なぜか、一馬の妹が乳飲み子を抱いて登場、新三郎の仇討ちに「協力」する。「このお金を茶店のあるじに渡して、兄を討ち果たし、御家を再興してください」、新三郎、我が意を得たりと、一馬を討ち取りにかかる。だが、突然、耳をつんざくような赤子の声、どうしても新三郎は一馬を討てない。そしてつぶやく。「何が侍だ、何が仇討ちだ・・・。もし一馬を討てば、その赤子は私を仇と思うだろう。その赤子に私が討たれれば、今度は私の息子がその赤子をねらうことになる、つくづく侍がいやになった」その通り、「やられたらやり返せ」という〈復讐の連鎖〉がいかに「虚しいか」という理念が、この芝居の眼目であることは間違いない。いわゆる「勧善懲悪」「義理人情」とはひと味違った雰囲気の舞台で、大変面白かった。終幕を迎える「節劇」も、大衆演劇の「泥臭い」イメージとは違って、「さらば友よ」「サクラサクラ」「惜別の時」などというフレーズがところどころ聞かれる、異色な風情であった。
太陽の里、仮眠室に1泊。
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インターネット接続

2008年7月14日(月) 晴(猛暑)
 昨日、ビックカメラでイーモバイルDなる代物を購入。それを現在使用している携帯用パソコンASUS・EeePCのUSBケーブルに接続すると、インターネット接続ができるとのこと、本体の価格は9,980円、月々の使用量は4,980円(2年契約)である。さっそく試してみると、なるほど、インターネットに接続、様々な情報の検索が可能になった。通常ではプロバイダとの契約が必要だと思われるが、その代物を取り付けるだけでどうしてそのようなことができるのか、全くわからない。
 そもそも、私は、これまで携帯用ワープロの機能しかノートパソコンには求めていなかったのだが、自分の駄作を「ホームページで公開 したい」という「煩悩」が生じたので、ビックカメラに赴き、「どうすればよいか」を相談したのだったが、店員は、「それなら、これが一番簡単です。USBに接続するだけでインターネットができますから」ということで、「とりあえず」(ワンステップ)という気持ちで、購入してみた次第。すべてを熟知しないで「実行に移す」ことは危険だが、「第二の人生」においては頓着する必要はない。今さら、「安全」を目指したところで、「安全な死」(安楽死ではない)というものはあり得ないのだから。店員の説明によれば、その本体をノートパソコンに接続するだけで、「インターネットができる」ということだったが、実際にやってみると、そこまでいくのが大変だった。済んでしまえばどうってことないことだが、その場面では「厚い壁」、にっちもさっちもいかないことが多かった。はたして、「ホームページを公開する」ことができるかどうかは「今後のお楽しみ」というところである。
 面白いことは、店員の説明を聞いても「取扱説明書」を読んでも、日本語の構文はわかるのだが、単語の意味がわからず、内容を理解できないということである。
〈例文:パケット通信に関する設定 パケット通信を行うためには、ダイアルアッププロファイルが設定されていることが必要です。プロファイルを表示するには、以下の2つの方法があります。●メイン画面より、「ツール」>「オプション」をクリックして、ナビゲーションツリー中の「設定管理」をクリックします。●(略) EMOBIRE HWユーティリティにはあらかじめ次のプロファイルが設定されています。イー・モバイルが提供するインターネット接続サービスを使用する場合はダイヤルアッププロファイルの設定は不要です〉この文の中の、カタカナで表示されている「単語」の意味はほとんど私にはわからない。(わかっている人には、どうしてわからないのかが、わからないかもしれないのだが・・・)「パケット通信」とは何か、「ダイアルアッププロファイル」とは何か、それがわからなければ、この文はいったい何を説明しているものか、わかるはずがないのである。「説明」とか「教える」ということが、いかにむずかしいものかを、今さらながらに痛感した次第である。
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「田中英光全集・7」(芳賀書店・昭和40年)

2008年7月10日(木) 曇
 この半月ばかりは、ずっと「田中英光全集7」(芳賀書店・昭和40年)にかかりっきりで読んでいる。いっときなど大宮健康センターの桟敷に置き忘れ、翌日に取り戻しに行ったくらいだ。これまでに、収録されている作物のうち「暗黒天使と小悪魔」(「諷刺文学」・昭和23年1月)、「野狐」(「知識人」・昭和24年5月号)、「離魂」(「新小説」・昭和24年8月号)、「便乗について」(「新日本文学」昭和24年8月号)、「月光癲狂院」(「新潮」・昭和24年10月号)、「愛と憎しみの傷に」(「人間創作集」・昭和24年11月号)、「さようなら」(「個性」・昭和24年11月号)、「聖ヤクザ」(「新潮」(昭和24年12月号)、「君あしたに去りぬ」(「群像」昭和24年12月号《遺作》)「子供たちに」(「新小説」昭和25年1月号《遺稿》)を読み終えた。小説の内容はいずれもほぼ同じ、妻子ある主人公と愛人の「絡み合い」(愛と憎しみの傷つけあい、癒しあい)を描いたものであるが、そのモデルが田中英光自身、妻の田中喜代子、愛人の山崎敬子であることは「定説」らしく、御丁寧にも全集の巻末には「資料」として「山崎敬子宛 英光の手紙」「刺された日のこと=山崎敬子」「思い出=田中喜代子」等の文章が載っている。
 田中英光自身、自分の作品を「私小説」と説明しており、ほぼ彼の「実生活」に近い内容が描かれているのだろうが、今、私が思うのは、よくも「一作家の放蕩・破滅的生活」が題材になり得た(作品が売れ、稿料が稼げた)ものだなあ、ということである。(私自身も含めて)田中英光という作家の「私生活」を「のぞき見」したいという読者のニーズがあったことは間違いないが、そもそも、その「私生活」にどれほどの魅力があったというのか。土佐の旧家に生まれ、大学時代はオリンピックに出場したほどのスポーツマンだったが、北支戦線での軍隊生活、敗戦を経て(日本共産党の)「党生活」を経験するも長続きせず挫折、脱党後は妻子・家族と分かれての「放蕩生活」、やがて師と仰ぐ太宰治の墓前で焼身自殺、といった「私生活」ではあった。一人の屈強な男が、青春を謳歌しながら、戦争に巻き込まれ、以後、「転落」「破滅」の人生を送ったという「事実」(実生活)に、私はあまり興味がない。まあ「他人の不幸は蜜の味」程度の関心がないわけではないし、「自分の方がまだましだ」と慰める材料にはなるかも知れないが・・・。私が最も惹かれるのは、「愛と憎しみの傷に」というタイトルに示されているような「心の構図」である。「愛する」という感情は、いつでもすぐに「憎む」という感情に「転化」するものであり、その感情をコントロールできなくなったとき「破局」がやってくる、という「お決まり」の構図なのだが、私には「主人公」の「心の動き」が、自分のものとして(ストレートに・即自的に)「実感」できる。
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田中英光評伝―無頼と無垢と田中英光評伝―無頼と無垢と
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里見要次郎

2008年7月9日(水) 曇
  午後5時から、浅草木馬館で大衆演劇観劇。「里見劇団進明座」(座長・里見要次郎)。「劇団紹介」のキャッチフレーズには〈粋な立ち役、妖艶な女形で魅せます!! 大衆演劇界の先を行く、「里見劇団進明座」が繰り広げる本格派の舞台。大正6(1917)年に創立された老舗劇団。昭和56(1981)年に座長を襲名以来、劇団だけではなく、大衆演劇界をもリードし続ける座長・里見要次郎。芝居一本、舞踊一本を大切に、舞台から感動を贈る・・・。ぜひ、こだわりの舞台をお楽しみください〉であった。里見要次郎といえば、知る人ぞ知る大衆演劇の「立役者」、私は約20年前(昭和63年9月)、十条篠原演芸場での舞台を見聞している。当然のことながら、若手座長として初々しく、艶やかな女形、抜群の歌唱力で「人気絶頂」だった。最近では、今年の1月、大阪・鈴成座の舞台を観た。その感想(「劇団素描)は、以下の通りである。                  
【里見劇団進明座】(座長・里見要次郎)<平成20年1月公演・大阪鈴成座>
約20年ぶりに観る里見要次郎は懐かしかった。かつての「艶姿」は健在であり、それに20年間の舞台経験を重ねた「貫禄」が加わっている。一部の「顔見せショー」では、かつての座員は一人も登場しなかったが、二部の「芝居」では、座長の母・美富士桂子(70歳)、旧座員・里見かずのりの姉(芸名・忘念)が登場、外題は「女小僧三吉」、歌舞伎の三人吉三、弁天小僧、播随院長兵衛をミックスしたような筋立て(喜劇)であったが、女小僧三吉役の座長・里見要次郎、長兵衛「もどき」の里見龍星、その女房・(芸名忘念の女優)、水野十郎左右衛門「もどき」のタカダヒロユキ、日本駄右衛門「もどき」・盗賊の頭(美富士桂子)、南郷力丸「もどき」の三枚目・里見直樹と「役者は揃っており」、安心して(往時をしのびながら)鑑賞することができた。とりわけ、かずのり・姉の成長ぶりは目を見張るほど、かつては純情可憐な娘役がはまっていたが、今や、体格ともども「大年増」を堂々と演じられるようになっていた。
昨年来、ほぼ40余りの劇団を見聞してきたが、どの座長も、特に関西の若手座長は、里見要次郎の芸風を「お手本」にしているような気がする。都若丸、大川良太郎、小林真などの女形舞踊は、その「表情」「所作」「衣装」において「瓜二つ」であり、極言すれば、彼より年下(45歳未満)の役者すべてに大きな影響力を与えているようだ。関東では、梅澤富美男が突出していたが、彼の芸風を継承している役者は見当たらない。今、林友廣の影響力が大きく、林京助、小林志津華、桂木昇らの「男っぽい」「立ち役」が主流を占めているのではないか。
 大歌舞伎界と同様、大衆演劇界においても、関東と関西の違いは歴然としている。関東は「無骨」「淡麗」「粋」「男伊達」、関西は「華麗」「繊細」「ど派手」「愁嘆」を目玉にする傾向は当然だが、いわゆる「くさい芝居」を「くさい」ままに終わらせないところに関西の「実力」(魅力)が秘められているように思う。言い換えれば、関東は「あっさり」していて後に残らない。関西は「こってり」しているが、その「しつこさ」が後を引く、ということである。どちらを好むか、それは観客の自由だが、その両方を兼ね備えているのが「鹿島順一劇団」ではないかと私は思う。

 芝居の外題は「天保蘇我」、歌舞伎・曽我物語「もどき」の「時代人情剣劇」とでもいおうか、三千石の武家には腹違いの三兄弟(長男・ゲスト高羽博樹、次男・里見龍星、三男・里見直樹)がいた。長男は、父(座長・里見要次郎)と気が合わず「日にち毎日」遊蕩三昧、次男は武者修業の旅で留守、三男は「育ちそびれ」て頼りない。あるとき、長男が芸者(里見ベティ)を連れて帰宅、「嫁にしたい」と父に言う。父は「ひと目、見ただけで」拒絶、芸者に向かって「つくばエキスプレスに乗って、北千住から、どこなへと消え失せろ!」と一喝。しかし、長男は従わず、部下と一緒に父を斬殺する。その場を目撃した三男、長男から「今の出来事を見ていたな!」と問い詰められるが、「何も見ていない、見ていない・・・」としらばっくれ、座敷牢に幽閉された。そこに立ち戻った次男、牢の前にさしかかると、三男、突然「正気に返り」、「兄上、この時を待っておりました。二人で父上の仇を討ちましょう」と顛末を報告する。それを知った長男一党、短筒で二人を攻撃。次男は目、三男は足を負傷した。なぜか、長男の朋輩として、いなせな旅鴉(里見要次郎・二役)登場、長男から、「次男と三男が父の敵」と吹き込まれ、二人を成敗しようとしたとき、どこからともなく聞こえてきた「法華の太鼓」、成敗を思いとどまり話を聞くと、事情は「あべこべ」。旅鴉、「朋輩とはいえ許せねえ!、あっしがお味方いたしやす」と改心、ともかく二人の傷を癒そうと「不動の滝」へ案内。食べ物を調達に出かけたが、その隙に長男一党が登場、手負いの二人を斬殺した。何も知らず戻ってきた旅鴉、血まみれの遺骸をみて驚愕、驚きはやがて「憤り」「怒り」へと変わり、「神も、仏もあったもんじゃあねえや。なんでえ、なんでえ、なにが不動様だ。もうこうなったら、しかたがねえ。おい、不動様とやら。オレとこの二人の命を取り換えてくんな。オレの命を捧げるから、どうか二人を生き返らせてみろ!」と叫ぶ。あざやかに自刃するかと思えば、「イテテ・・・」といくつかの「ためらい傷」。それでも、旅鴉、苦し紛れに自刃した。舞台は暗転、何ともいえぬ「絶望感」「寂寥感」に包まれたが、ややあって、「奇跡」は起きた。旅鴉の願い通り、次男、三男は(傷も癒えて)蘇り、命を捧げた旅鴉までもが生き返ったのである。まさに「信心」の「御利益」を眼目にした「宗教劇」の典型、以後は三人揃って、長男を討つという筋書で、めでたしめでたしのハッピーエンド。いかにも「里見劇団」らしく、「明るく」「楽しい」終幕となった。
「キャッチフレーズ」にもあるように、里見要次郎が〈大衆演劇界をリードし続け〉ていることは、間違いない、芝居でも、舞踊でも、この劇団の「景色」が、他の劇団に「取り入れられている」例は、枚挙に暇がないほどである。まさに、現代「大衆演劇」の「源流」といっても過言ではない、と私は思う。
 だがしかし、当然のことながら「老い」は隠せない。その分、脇役が光彩を放たなければならないのだが、現状は「今一歩」、若手陣の奮起を期待する。
ちなみに、「劇団プロフィール」は以下の通りである。〈里見劇団進明座 関西大衆演劇親交会所属。大正6(1914〉年、現座長の祖父・桃中軒雲童(故人)が創立。今年(2008年)で94年目となる老舗劇団。初代座長は山村桃太郎。歌舞伎から流れた役者が60人ほど集まり旗揚げ。現在の里見要次郎座長は、歴代17番目の座長。三味線に生バンドなど、多種多様な舞台でお客様を楽しませている。里見要次郎 昭和38(1963)年生まれ。福岡県出身。血液型O型。「とっかん小僧・里見豆タンク」の名前で、2歳半の時に初舞台。昭和56(1981)年、当時、最年少座長として、二代目・里見要次郎を襲名。平成15(2003)年、新歌舞伎座特別公演を成功させる。御園座などの大舞台でも活躍。
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教員全般の「質」

2008年7月7日(月) 曇
 
 大分県教育委員会の「教員採用選考」に関する贈収賄汚職が取り沙汰されているが、このような事例は、全国津津浦々で「日常茶飯事」に行われているのではないか。100万円の商品券とまでもいかなくとも、同様の依頼をし、物品で謝礼を贈ることがあることは、「何となく雰囲気で」感じていたものである。保護者からの贈答には敏感だが、同業者同士なら、どちらかが暴露しなければ秘密裡に終わるわけで、今回の発覚は誰の「告発」「密告」によるものだろうか。
 いずれにせよ、「今さら」「なぜ」「このようなこと」が取り沙汰されなければならないのか、私にはわからなかった。「教員」という身分・立場は、賄賂を贈ってまで「獲得」する価値があるという「風潮」であることは間違いなく、また、その「風潮」によって、教員全般の「質」が、低下の一途を辿っていることも間違いないのではないだろうか。
肢体不自由教育への希求―「人生の質」を高める「教育の質」を問う肢体不自由教育への希求―「人生の質」を高める「教育の質」を問う
(2004/08/03)
飯野 順子

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ケ・セ・ラ・セ・ラ

2008年7月1日(火) 晴(梅雨の晴れ間)
 この日誌を綴り始めて、半年が過ぎた。読書、作文、旅行が「生活」の大半を占めている。第三者から見れば、「たいそう贅沢で幸せな生活」を過ごしているように思われるだろう。「おっしゃる通り」、私は「幸せ」でなければならない。「幸せ」なはずだ。しかし、それを実感できない。煩悩が邪魔をするからである。つねに「もっと何かあるはずだ」と感じる「欲」が生じるからである。「分をわきまえる」「身の程を知る」「知足」といった観念が不足していることは明らかだ。
 「文は人なり」という諺は真実だと思う。この日誌を読めば「一目瞭然」、私自身の「未熟さ」「低俗さ」「高慢さ」「奢り」を露出しているだけで、何の価値もない。唯一、何かがあるとすれば、「あれくらいのことなら、だれでも書ける。自分も綴ってみようか」という「動機付け」くらいにはなるかも知れない、という程度であろう。「継続は力なり」という文句もあるが、私の場合、この作文を「継続しても力にならない」ことは間違いない。継続すべきか、中止すべきか、またまた「迷う」という煩悩が生じる。「他人に迷惑をかけるか、否か」という観点から判断すれば、中止した方がいいに決まっている。では、もうやめようか。しかし、それは、私にとって断煙をやめることに等しい、「意地」の問題なのである。
 いずれにせよ、「第二の人生」は、奈落に向かって「階段を降りていく」ようなもの、「立つ鳥跡を濁さず」でいくか「旅の恥はかき捨て」でいくか、「運を天に任せる」ことにしよう。「明日は明日の風が吹く」、ケセラセラ・・・。
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(2003/07/24)
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TV東京「ガイアの夜明け」・《中国社会における貧富格差の実態》

2008年4月1日(火) 晴(強風)
午後9時から、テレビ東京「ガイアの夜明け」視聴。中国社会における貧富格差の実態をレポートした番組である。農村部と都市部では月収の「差」が3倍に拡がったという。たしか、中国は「社会主義国」であったはずだが、どうしてそのようなことが起こるのだろうか。というより、「社会主義」という理念そのものが、空虚な幻想であったのだから、そのような結果になることは「必然」だということが定説化しつつある。中国という「社会主義国家」が崩壊することは「時間の問題」なのだろうか。旧満州で暮らしたことのある、私の亡父は「中国人が、このまま社会主義を受け容れるとは思えない」と言っていたが、今、そのことが「顕在化」したのだろうか。いずれにせよ、政治は「社会主義」、経済は「資本主義」という「現実」、日本の3倍以上の早さで進む「経済成長」が、中国の伝統的な「家族社会」「生活様式」に大きな変化を与え、様々な「ひずみ」を生じさせていることは確かなようだ。しかも、その「変化」「ひずみ」づくりに、日本の「企業」が深く関わっているとすれば、中国の問題イコール日本の問題ということになる。いうまでもなく、今、中国社会が抱えている問題は、日本にとって「いつか来た道」に他ならず、その解決策は「経験済み」といえよう。戦前の「国家主義」「軍国主義」「テロリズム」、「ナショナリズム」、戦後の「核家族化」「公害問題」「交通問題」「少子化問題」等々、をどのように「克服」しつつあるか、その方法を提示することが「日中友好」の第一歩になるのではないか、と思った。
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「華中戦記(武漢から宜昌へ)」(高塚純一・国際教育文化社・2007年・非売品)

2008年3月3日(月)晴
「華中戦記(武漢から宜昌へ)」(高塚純一・国際教育文化社・2007年・非売品)を読み始める。この著者は、すでに「太行戦記(華北戦線の記録)」(1997年)、「視点を変えた朝鮮戦争」(2000年)、「江南戦記(上海から南京へ)」(2001年)、「満州戦記(満州事変から関東軍崩壊まで)」(2002年)、「マレー・シンガポール戦記(第五師団の戦い)」を著している。1948年生まれなので、直接的な「戦争体験」はないが、「先の大戦」に関する記録・資料・著作物などを丹念に調べ上げ、「戦争とは何か」を誠実・真摯に追求している。特に、兵士の日記に注目、戦場における「異常な心理」を浮き彫りにしている点が貴重だと思う。どの作物だったか詳細は思い出せないが、「倒した敵のポケットから煙草を奪い取り、その一服が何ともいえずうまかった」という記述があった。平常時なら「殺人鬼」に近い心理だが、ごく普通の一般人が「戦場の兵士」という立場におかれると、いとも簡単にそのようなことを書いてしまう、それが戦争という現実であることを思い知らされた。
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「つゆのあとさき」(永井荷風・昭和6年)

2008年2月29日(金) 晴
 「つゆのあとさき」(永井荷風・岩波文庫・昭和6年)読了。「夢の女」「ひかげの花」同様、春を売る女性の生態を描いた「風俗小説」のように感じられるが、文学(史)的には、より高い価値があるようだ。「解説」で、中村真一郎は次のように書いている。「青年時代にヨーロッパから帰朝した直後には、彼は西欧風の思想の自由の実現を夢想し、そのなかには男女交際の自由も含まれていたのだが、明治の非民主的強権社会の現実に、この夢が破れるに及んで、(略)自ら近代的作家としての使命を抛棄し、江戸の戯作者の地位にまで身を落とそうと決心すると共に、一切の社会的発言を自らに禁じ、現在の日本では作家は、西欧のたとえば、フランスの自然主義作家ゾラが、ドレフェース事件の際、正義のために立って、反動的な軍部と戦うというような行動は、到底不可能であるとの、深い諦念から、一時はフランスに移住を決意し、それも何らかの事情によって中絶すると、文壇やジャーナリズムとの交わりを断ち、家族とも縁を切って、徹底した西洋風の習慣による、隠遁生活に入っていった。彼の青春時代の深刻な精神的挫折から、残ったのは幼い時から身についた西欧的個人主義だけで、そして西欧の民主的社会とは明治の日本が異なるという認識が、男女関係においては、そこに何らの愛を含まぬ、女性を性的玩具としてしか見ないという畸形態度を生むに至った。そこで彼にとっては結婚生活も問題外となったわけで、そのエゴイスティックな自己の内的自由を守るためには、日常の不便など問題にならなかった。ところで、五十歳代のはじめの頃の彼は、中国の古典やフランスの新しい文学に、精神の糧を求めながら、一方で毎日、夕方には外出して、神楽坂の田原屋や、銀座の食堂で食事をとり、定期的に待合で愛人と逢引し、あとは銀座のカフェー・タイガー(略)に通って、文壇人以外の少数の気の合った仲間と、昭和初頭の新しい風俗である「カフェー」という娯楽機関と、そこに働く女給たちの生態を観察し、また往年のフランスの本物のキャフェと、日本の偽物のカフェーとの異同について、皮肉な意見を交わし合って、時を過ごすようになっていた。そして、そうした自分の毎晩の『観察』生活のなかに、彼は青年時代に心酔した、フランス自然主義文学への関心の復活を感じ、自らもそうした『自然主義』的な手法によって、これらの新風俗を描いてみようとの衝動を意識するに至った」
 「つゆのあとさき」という作物が、どのような背景、動機、意図で創られたか、大変わかりやすい解説だと思う。では、その作物にどのような価値があるのか、以下も、中村真一郎の解説である。「ところで、元来、フランス自然主義の父であるフローベルその人も、一八四八年の革命の失敗により、歴史の進歩に絶望することで、『象牙の塔』に籠って、ブルジョワの低俗な生活に冷眼をそそぎ、その市民生活の愚劣さを客観的に描写する、という『批判的レアリスム』を発明したのである。そして、彼もまた、人間的関係において、愛というものを否定し、独身生活を維持し、描く対象に対して、愛情でなく嫌悪を抱くことで、その客観主義を完成させた。この態度は、はからずも、明治の社会の強権政治と、急造の西洋文明の模倣の低級さとに絶望していた荷風の精神とに合致したので、彼がそうした現実社会への冷嘲と、描くべき対象への厭悪と、またそうした外界から完全に隔離した孤立生活を営みながら、精緻で意地の悪い観察によって、毎晩、通った目前の銀座のカフェーの軽薄さ、またそこで働く女性たちの、従来にない新しい娼婦性を活写しようという欲望を抱くに至ったのは、必ずしも、青年時代の文学的教養への回顧的立ち戻りではなく、むしろその隠遁生活の長さから来る、真の自然主義精神の成熟というべきである。したがって、この『つゆのあとさき』と、次の『ひかげの花』とは、思いがけず季節外れの自然主義的傑作として、わが文学史上に輝くことになった。その観察の微細で、皮肉で、奇稽なることは、当時、この新風俗を歓迎し、そのなかに喜び戯れていた他の同時代の作家たちには、到底、実現不可能なものであった。しかも、その風俗描写は、単に外面的なものにとどまらず、女主人公の生態と心理との内面にまで、深く透徹していて、見事のきわみである。と、同時に、作者が一時、韜晦的に舐読した、江戸末期の通俗小説の、偶然を利用品がら、物語に変化を与え、作品にひとつの形式的完成をもたらす手法を、大胆に適用することで、本場フランスの自然主義小説が、時に構成の上で放恣に流れる欠点をも克服している点も、意外な功績というべきか」
 要するに、「真の自然主義精神の成熟」による「自然主義的傑作」という価値がある、ということであろう。言い換えれば、「他の同時代の作家たちには、到底、実現不可能な」「観察の微細」「皮肉」「奇稽」な「風俗描写」であり、「女主人公の生態と心理との内面にまで、深く透徹」した「風俗描写」に価値がある、ということである。
 私見によれば、その価値とは、文学者と呼ばれる「仲間うち」(文学史上)の価値に過ぎない。描写された女主人公とその「仲間うち」は「意地の悪い観察」によって「活写」され、あくまで「厭悪」の対象としての存在にしか過ぎない。にもかかわらず、荷風のことを「先生」と敬愛してやまなかった。いやいや、それはうわべだけで、彼らの方こそ、この「文豪」(文化勲章受章者)を「厭悪」の対象としていたのだろうか。

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テレビドラマ「だいすき」(TBS)・《その2》

2008年2月28日(木)晴
 午後10時から、テレビドラマ「だいすき」視聴。主人公・福原柚子が就職を希望、ハローワークの紹介でパン屋の実習をはじめる。サンドイッチ作りを担当、ジョブコーチの支援もあって、具の盛りつけ方、包丁さばきは、見違えるように上達した。その結果を見て、雇用主は「合格」と評価、晴れて採用となった。しかし、私の評価は「不合格」である。食料品を扱う事業所にとって最も大切なことは「衛生管理」ではないか。具の盛りつけや、包丁さばきといった「技術」以前の段階で、まず「手洗い」「身だしなみ」といった清潔の習慣を身につけることが不可欠であろう。にもかかわらず、残念ながら、主人公の身だしなみは「不適切」であった。頭にかぶった白帽の脇から、長い毛髪が頬の両脇まで垂れ下がっている。調理従事者にとっては「最悪」の身だしなみではないだろうか。この場合、フィクションなのだから(見栄えをよくする)という弁解は成り立たない。前回、私は「どこかが『現実』とずれている」という感想をもったが、今回、その感をいっそう深くした。「手をつなぐ育成会」のほか、「就労支援センター」(ジョブコーチ)、「ハローワーク」、パン製造業者など「各関係機関」の監修がなければ、このドラマの「絵空事」傾向は、「とどまるところを知らぬ」ほど強まるのではないかと、私は危惧する。障害者に対する社会の無理解を啓発し、彼らの可能性を真摯に追求しようとしている「手をつなぐ育成会」(保護者)の願いが、水泡に帰すことのないよう、制作関係者の研修を切望したい。

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「勲章」(永井荷風・昭和17年)

2008年2月27日(水) 晴  「勲章」(永井荷風・昭和17年)読了。この小説を学生時代に読んだ記憶がある。しかし、その題名以外、憶えていることは皆無だった。卒業論文の主題は「戦後文学の思想と方法」、織田作之助、坂口安吾、石川淳、太宰治など、いわゆる「新戯作派」の作物に言及した内容であった。要旨は、戦前の「家父長制」に基づいた「醇風美俗」の生活意識と対峙し、身を賭して闘った文学は「新戯作派」を措いて他にない、というような稚拙きわまるものであった。そもそも「新戯作派」というからには、「旧戯作派」なるものが存在しなければならないが、それが何という作家のどんな作物であったか、私は全く知らなかったのである。今あらためて「勲章」(その他の作物・「夢の女」、「狐」「監獄署の裏」「散柳窓夕栄「雨瀟瀟」「雪解」「榎物語」「ひかげの花」など)を読み直し、なるほど、永井荷風こそ「旧戯作派」の旗手であったのかという思いを深くした次第である。  荷風が描く人物は、そのほとんどが「ひかげ」の存在である。妾、私娼、女給、そのヒモなどというように、「健全」「道徳」といった観念とは無縁の空間で生活している人々である。おそらく、荷風の小説を「読む」こともないであろう。つまり、荷風が描く人物と読者には「接点」がない。荷風自身といえば、近代の「柳亭種彦」よろしく、戯作者を気取っているが、決して「ひかげ」の存在になることはない。羨ましいといおうか、中途半端といおうか、甘ったれといおうか、図々しいといおうか。そのあたりが「旧戯作派」と「新戯作派」の「違い」なのかもしれない。
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平成時代の「2・26事件」

2008年2月26日(火)晴・曇・雨  蕎麦屋で夕食を摂りながらテレビのニュースを見ていると、「日教組の全国集会が中止になった。会場として予約していた高輪プリンスホテルが、一方的に解約を通告してきたため」だという。日教組は、それを不服として裁判所に「取り消し」を求め、高等裁判所もそれを認めたが、プリンスホテル側は、その決定も無視し「会場は貸せない」という態度を変えていないそうである。その理由は「右翼団体の妨害が予想され、地域住民、ホテル利用客などに多大な迷惑をかけるおそれがあるから」ということだった。それを聞いて(見て)、私は以下のような疑問をもった。  ① 高輪プリンスホテルは、当初、日教組からの会場予約申込みを受け付けたのは、どうしてだろうか。「右翼団体の妨害が予想され」るのは、今回に限ったことではない。なぜ、はじめから会場提供を断らなかったのか。予約受付から「一方的な解約」まで に、どのような経緯があったのか。 ② 日教組は、高輪プリンスホテルの会場使用が不可能になったとしても、それだけの理由で、全国集会を中止するのはどうしてか。他の会場を物色しようとしないのはなぜだろうか。 ③ 私も含めて多くの国民が、裁判所の決定に従わないという「無法状態」を黙認しているのはなぜか。  疑問に対する答はただ一つ、要するに、誰もが「右翼団体の妨害」が「恐ろしい」と感じているためであろう。「恐ろしいことは避けたい」「煩わしいことには関わりたくない」という防衛反応が、「法の力」を著しく弱めている。  「日教組」といえば、教職員(主として全国の公立小・中学校)の団体である。だとすれば、「右翼団体の構成員」もまた「日教組・組合員」の教育を受けたに違いない。小・中学校時代、教室の中で共に過ごした「先生と生徒」が、片や「日教組」、片や「右翼団体」の一員となって対決・対峙、方や「多くの市民」となって傍観する、それが平成時代の「2・26事件」(社会構図)に他ならない。
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「鹿島順一劇団」・《「男の盃・孫次郎の最後」は「横綱・大関級」》

2008年2月25日(月) 晴 午後1時から、川越三光ホテル・小江戸座で大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)芝居に外題は、昼の部「賀の祝」、夜の部「男の盃・孫次郎の最後」。昼は「大入り」だったが、座長はそのことを「口上」では触れずじまい、歌謡ステージの際に「追加」する始末、だが私はそうした姿勢に共感する。劇団の「実力」と「集客能力」は比例しない。「大入りでないと役者はやる気を出さないだろう」と危惧する客を多く見かけるが、そんなことはない。「実力」のある劇団ほど、少ない客を大切にするからである。昨年、佐倉湯パラダイスで観た「見海堂駿劇団」はたった8人の観客を前にして、「権左と助十」の名舞台を演じていた。その後、「大入り」の舞台(「意地悪ばあさん」)も観たが、客の騒々しさに負け、盛り上がりに欠けていた感じがする。関係者には申し訳ないが、私は「大入りだから頑張る」という劇団に魅力を感じない。「今日も大入りを頂きました」などと、その回数を自慢したり、反対に客の少ないことを愚痴る劇団も見受けられるが、そんな劇団に限って「実力不足」が目立つような気がする。大切なことは、今、目の前にいる客のために「全力を尽くす」ことではないだろうか。そんなわけで、「大入り」を忘れていた座長・鹿島順一の姿勢に私は共感し、拍手を贈りたい。  さて、芝居の出来栄えは昼。夜ともに申し分なかったが、特に、夜の部「男の盃・孫次郎の最後」は素晴らしかった。実を言えば、私は先日(2月15日)、この芝居と全く同じ内容の舞台を浅草木馬館で見聞していた。外題は「笹川乱れ笠」、劇団は「劇団武る」(座長・三条すすむ)。寸分違わぬ筋書で、私の感想は以下の通りである。<本格的な「任侠劇」で、「実力」も申し分ないのだが、「息抜き」(力を抜いて客を笑わせる)場面が全くなかった。それはそれでよいと思うが、ではどこを「見せ場」にしているのだろうか。刺客が笹川一家の代貸し・子分達に「わざと討たれる」場面、血糊を使って壮絶な風情を演出しようとする意図は感じられる。だが、客の反応は「今ひとつ」、表情に明るさが見られなかった。やはり、観客は、笑いのある『楽しい』舞台を観たいのだ>。  たしかに、「鹿島順一劇団」・「男の盃・孫次郎の最後」にも「笑い」はない。しかし、役者一人一人の「実力」「意気込み」「ひたむきさ」、相互のチームワークにおいて「全く違う」印象をもった。まさに「役者が違う」のである。この芝居の主役は、外題にもある通り、三浦屋孫次郎(花道あきら)だが、それを支える飯岡一家の用心棒(座長・鹿島順一)の「演技力」が決め手になる。自分自身を「ヤクザに飼われた犬」とさげすむニヒリズム、しかし孫次郎の「侠気」に惚れ込むロマンチシズムが「混然一体」となって、何ともいえない「男の魅力」を醸し出す。この用心棒の存在がなければ、芝居の眼目は半減・消失してしまうのだ。「劇団武る」で、孫次郎を演じたのは座長(三条すすむ)、用心棒を演じたのは副座長(藤千乃丞)であった。台本に対する「解釈の違い」が、出来栄えの「差」に大きく影響していると思われる。もし、その配役が逆であっったら、どのような結果になったかわからない。全く同じ筋書の芝居でありながら、「鹿島順一劇団」は「横綱・大関級」、「劇団武る」は「関脇・前頭級」であることを、あらためて確認できた次第である。  夜の舞踊ショー・ラストの「美幸の阿波踊り」、梅乃枝健の舞踊は、「水を得た魚」のようで「絶品」、群舞の中でひときわ目立っていた。
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テレビ・「NHKスペシャル・《幸せな死》」

2008年2月24日(日)晴(強風のため交通機関混乱)  午後10時から、テレビ「NHKスペシャル」(最期は家で・・がん患者の願いをかなえる専門医▽痛みなく家族が支える幸せな死)視聴。医者の仕事は、病気や怪我をを治療するだけではない。「余命何ヶ月」と診断し、死を看取ることも医者の仕事である。番組では、「家族が支える幸せな死」を実現しようと尽力する専門医(後者)の仕事ぶりをリポートしていた。「死」イコール「不幸」という先入観(常識)に立ち向かおうとする姿勢に拍手を贈りたい。人間は誰でも死ななければならない。どんなに若くても、どんなに裕福でも、どんなに頑健でも、生きている限り「死」は必ずやってくる。それを「幸せな死」として具現化できるかどうか。高齢化社会にとっては、まさに喫緊の課題であるといえよう。愛する夫の世話になりたくないと思う老妻の言葉、「私は自殺しなければならない。夫の自由を奪うことはしたくない。こんな状態で生きていたって、毎日が同じことの繰り返し、何になるの?」という問いかけに、専門医は絶句する。その通り、医学的な治療の見込みなく、あとは「死を待つばかり」という状態に陥ったとき、自分でできることは「自殺」以外にないだろう。その「自殺」すらできないのが現実であるとすれば、「死」までの道程は「生き地獄」ということになる。私自身の経験によれば、「死」までの道程が短ければ短いほど「幸せ」である。最も「幸せな死」とは、自分が死んだことすら認識できない、「突然死」「即死」と呼ばれる類ではないだろうか。周囲の者がどんなに「あっけなく」「無惨」に感じようと、それは生き残った側の「独断」に過ぎない。生きとし生けるもののとって、「死」イコール「不幸」という公式は常識であるが、その「死」とは畢竟、他者(他人)の「死」に他ならず、自分自身の「死」イコール「幸せ」という公式もまた真理なのである。だとすれば、他人を「不幸」にしない「死」とは、どういうものか。そのことを追求するために、「冬蜂」は「紀行」する。
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永井荷風・「榎物語」

2008年2月23日(土)晴(午後から強風) 「榎物語」(永井荷風・昭和6年)読了。大変おもしろかった。解説(竹盛天雄・「岩波文庫」)によれば、「大正から昭和への転換期においても、荷風の文業は、随筆が主であって小説制作は依然下降をつづけている。ようやく復活のきっかけをつかむのは、一九三一(昭和六)年、『あぢさい』『榎物語』につづいて『つゆのあとさき』を発表、好評をもって迎えられてからである。この頃の荷風は、文体のうえでも反時勢を意識し、『夜の車』『かたおもひ』などでは雅俗折衷体の古めかしいスタイルをこころみている。『榎物語』が候文体による遺書形式をとっているのも、そのあらわれに他ならない」。候文体による遺書形式の書き出しは、「愚僧儀一生涯の行状、懺悔のためその大略を此に認め置候もの也。愚僧儀はもと西国丸円藩の御家臣深沢重右衛門と申候者の次男にて有之候。不束ながら行末は儒者とも相なり家名を揚げたき心願にて有之候処、十五歳の春、父上は殿様御帰国の砌御供廻仰付けられそのまま御国詰めになされ候に依り、愚僧は芝山内青樹院と申す学寮の住職雲石殿、年来父上とは昵懇の間柄にて有之候まま、右の学寮に寄宿仕り、従前通り江戸御屋敷御抱えの儒者松下先生につきて朱子学出精罷在候処、月日たつにつれて自然出家の念願起り来たり、十七歳の春剃髪致し・・・」という調子で、漢字の多いこと、一文の長いことになじめず、放り出そうと思ったが、「やがて愚僧二十歳に相なり候頃より、ふと同寮の学僧に誘われ、品川宿の妓楼に遊び仏戒を破り候てより、とかく邪念に妨げられ、経文修業も追々おろそかに相なり、果は唯うかうかとのみ月日を送り申候」という辺りから、さらに読み進めようという意欲がわいてきた。内容は、東京世田谷にある満行寺住職・釈良乗の懺悔録である。住職といえば仏に仕える身、さだめし高潔な道徳が述べられていると思えば、さにあらず、学寮を抜け出して遊蕩の帰り、武家の争いに遭遇、百両という大金を手にする。邪念が起きて、そのまま遁走、途中で出会った仲間の学僧に見とがめられ、その百両の奪い合いで相手を殺してしまった。しかし、幸か不幸か、何とか逃げ延びることができたばかりか、親切な仏僧に見込まれてその寺の住職におさまったという話。「榎物語」の榎とは、「ねこばば」した百両の「隠し場所」であったのだ。 候文体による遺書の内容としては、あまりにも低俗、住職といえども「煩悩の塊である」という眼目が、実におもしろかった。前出の解説では、「この作品について正宗白鳥が『文芸時評』で『荷風全集中に収めても、最も傑れたものの一つ』と称賛したこと、さらに谷崎が白鳥の『感動』について、それは『一にあの簡略な、荒筋だけを述べている書き方に由来する』(『春琴抄後語』)と注釈をくわえたことは有名だ。なかなか興味深い問題である」と述べられている。文体・形式の面で、森鴎外の影響を受けていることも間違いないだろう。
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「鹿島順一劇団」・《「会津の小鉄」の人情描出は抜群》

2008年2月22日(金)  午後1時から、川越三光ホテル・小江戸座で大衆演劇観劇。  公演は「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)。芝居の外題は、昼の部「会津の小鉄」(主演・花道あきら)、夜の部「一羽の鴉」(主演・蛇々丸)。昨年11月、柏健康センターみのりの湯で、初めて「鹿島順一劇団」を観たとき、「目を空いたまま」盲目の役を演じることができる、たいそう達者な女優がいるのに、また、所作と表情だけで「笑い」をとれる、たいそう達者な男優がいるのに、全体としては「観客との呼吸が合わず、盛り上がりに欠ける」という感想をもった。芝居の外題すら覚えていなかったが、今日の観劇で思い出した。そうだ、あの時の芝居は、まさに「会津の小鉄」だったのだ。今日の舞台は、あの時とは打って変わり、「天下一品」「至芸そのもの」という出来栄えであった。たった三月の間に、この劇団の「実力」が向上したわけではない。「劇団」本来の「実力」が今日は十二分に発揮できたのである。舞台は水物、観客との呼吸次第だということがわかった。この外題は、いわば大衆演劇の定番、どこの劇団でも十八番にしているが、今日の舞台を超える出来栄えは観たことがない。役者一人一人の「実力」はもとより、配役、舞台構成、照明効果、音響効果に「非の打ち所がない」のである。敵役の名張屋新蔵(座長)に満座の席で恥をかかされ、復讐しようと呼び出したまではよかったが、そこでも同行した兄弟分を返り討ちで亡くし、指まで詰めてすごすごと帰宅した高坂仙吉(花道あきら)、盲目の恋女房・お吉(春日舞子)には隠していたつもりが、すでにお見通しだった。「あたしはおまえさんの女房だよ。そんなこと知らずでどうするものかえ」「兄弟分まで殺されて、すごすごと帰ってくるなんて」と、責められる。仙吉「おれは、お前一人を残して逝くわけにはいかなかった」「あたしのことなら心配いらない。眼は不自由でも女一人、何としてでも生きていける」「そうか、じゃあ敵討ちに行ってもいいんだな」「こんなこともあろうかと、用意しておいたよ」と着せられる白装束。「ありがとよ、これで男の意地が通せる」勇んで出立しようとする仙吉を、「あっ、おまえさん待って」と呼びとめ「後に心が残ってはいけない。どうぞ存分にうらみを晴らしておくんなさい」と言いながら、お吉は自刃した。思いもよらぬ女房の死、だがもう、仙吉が失うものは何もなかった。「わかった。存分に働いて、すぐに後から逝くからな」一景は、愁嘆場(京極幸枝若口演の節劇は秀逸)で幕が下りた。  二景は打って変わり、底抜けに明るい舞台、腹を減らした二匹の素浪人・宮本むさくるし(蛇々丸)、佐々木乞食(春大吉)、フラフラと登場。歌舞伎「もどき」の「三枚目」、京の町にやってきたが、仕事が見つからず無一文、朋輩の鼻まで「団子」に見える。そこへ、新蔵の娘・(じゃじゃ馬然の)お京(鹿島虎順)が通りかかった。「食い気より色気」、たちまち二人の浪人は「ものにしよう」とナンパする。危機一髪、お京を救ったのは、誰あろう、これから父・新蔵を討ちに向かう途中の仙吉だった。執拗に絡みかかる素浪人、「おのれ、手は見せぬぞ」と「型どおり(歌舞伎調)」の口跡に、「手は見えてるよ」、「みどもの太刀筋をかわしおったな」「そんな太刀筋、誰でもかわせるよ、何ごちゃごちゃ言ってんだ!早く失せろ!」と現代風にいなす仙吉、そのやりとりが実におもしろい。峰打ちを食らわして二人を退散させると、舞台に残ったのは仙吉とお京。「助けてくれと頼んだ覚えはない。お礼は言わないよ」と突っ張るお京に、「気の強え娘だ。おまえさん名前は?」「あたし?あたしは、京都一円を取り仕切る名張屋新蔵の娘・お京と言うのさ!」そうだったのか、では、あの憎っくき仇の娘か、まあいいや、先を急ごう、二人は連れだって、名張屋一家へと向かう。 三景は、新蔵宅。娘の帰りが遅いのを心配する新蔵。子分を迎えにやらせようとしたとき、お京が帰ってきた。「今、京の町は危険がいっぱい、娘のひとり歩きは物騒だ。・・・・」くどくどと説教を始める新蔵に、「お父っつあん、もう終わり?」、馬耳東風のお京。「あのね、悪いお侍に絡まれたの」「そら、言わんこっちゃねえ。お前にもしものことがあったら、死んだおっ母さんに申し開きできねえ・・・・」「お父っつあん、もう終わり?でもね、私を助けてくれたお人がいたの」「そうかそうか、で、その人はどこのお方だ」「知らない!」「なんだ、お前、助けてくれたお方の名前を聞かないできたのか、それじゃあお礼もできないじゃないか」「そんな心配いらないわ、今、そこに来ているもの」「それを早く言わないか、早く家の中にお通ししろ」  かくて、仙吉は仇敵・新蔵と対面する。「どこのお方か存じませんが、このたびは娘の危ないところをお助けいただき、ありがとうがござんした」丁重に礼を言う新蔵に向かって、「やい新蔵、よくもオレに恥をかかせやがったな!今日は兄弟分の仇を討ちに来たんだ」と仙吉は宣言する。「なあんだ、お前は仙吉か。返り討ちに遭う前に消え失せろ!」「そうはいかねえ。お前に渡すものがあるんだ」「ふうん、手土産持参とは感心なやつだ」仙吉が渡した「手土産」とは、恋女房・お吉の生首、驚愕する新蔵、しかし「おまえの女房にしては出来過ぎ、相手になってやろう」、抜刀して立ち上がる。「望むところだ、覚悟しやがれ!」情感溢れる法華太鼓をバックに、たちまち始まる立ち回りは、小道具の脇差しが本身と見間違うほどの真剣勝負、見事な殺陣であった。わずかに仙吉のドスが優り、新蔵は深手を負う。子分達は黙っていない。「野郎!ゆるさねえぞ」といきり立つのを静かに制し、新蔵は言った。「もし、仙吉さん。勝負はついた。オレの負けだ。それにしても、お前はいい男だなあ・・・」「何だと?」荒い息の中から新蔵の長ゼリフ。要するに、妻に先立たれ、自分も労咳、一人娘の行く末を案じて「婿」を探したが、どれをとっても「帯に短し襷に長し」で見つからない、そんなとき、白羽の矢が当たったのは仙吉だった、しかし、仙吉はすでに所帯持ち、「婿」にはできない腹いせに、万座(花会)の席で 恥をかかせた次第、馬鹿な親だと嗤ってくれ、お前からもらった小指、兄弟分の亡骸は大切に回向しているつもりだ、という話。座長・鹿島順一の長ゼリフは、それだけで一話の「人情噺」、すべてを察した仙吉に、名刀「小鉄」と一家の行く末を託し、亡妻のもとに旅立つ新蔵、それを支える仙吉、お京、子分たち、どの劇団の舞台でも観ることができない「至芸」(会津小鉄誕生秘話)であった、と私は思う。ただ単に「意地の張り合い」「格好良さ」を形で見せるのではなく、底に流れる「人情」に注目し、それを役者のキャラクターに合わせて表現しようとする「演出」が、群を抜いているのである。 舞踊ショーでは、三代目・虎順の「蟹工船」「忠義桜」は絶品。南條影虎の女形舞踊「夢千代日記」を追い越せれば、若手ナンバーワンになる日も遠くない。
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浪花しぐれ「桂春団冶」/会津の小鉄浪花しぐれ「桂春団冶」/会津の小鉄
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テレビドラマ「だいすき」(TBS)

2008年2月21日(木)晴  午後1時から柏健康センターみのりの湯で大衆演劇観劇。「司京太郎劇団」(座長・司京太郎」芝居の外題は昼の部「中山七里」、夜の部「長一郎旅日記」。新たに、四条はじめ、錦麗人、みとみ(漢字は失念)金蔵という役者の名前と顔が一致した。「劇団・長谷川」の長谷川武弥が小倉から上京、特別出演していた。座長の口上から、司京太郎の弟は「劇団武る」の座長・三条すすむ、妹は藤乃かな、もう一人、「劇団長谷川」の座長・愛京花だということがわかった。芝居も舞踊も「そつなく」こなし、水準以上の実力はあるが、「魅力」の面では「頭打ち」というところか。観客は座長の衣装に目を奪われ、それが劇団の「目玉」になっているような気がする。ただ、初めて観た舞台よりは、観客との「呼吸」もピタリと合い「大入り」が続いている。それはそれでいいのだろう。  午後10時から、テレビドラマ「だいすき」(TBS)視聴。シングルマザー・柚子(知的障害)の娘・ひまわりも5歳、まもなく保育園の卒園式を迎える。そんなとき、「どうして私にはお父さんがいないのだろう?」という疑問を持ちはじめる。そして「お父さんに会いたい」とせがむ。私自身、父子家族、母親がいなかったので実感できるのだが、「どうしてお母さんがいないのだろう」「お母さんに会いたい」と思ったことはない。むしろ、「いないことがあたりまえ」という感覚の方が強かった。周囲の人(特に成人女性)から、「かわいそう」「寂しくないか」などと言われたが、そう感じたことはなかった。「何かが足りない」という感じは今でも根強く残ってはいるが・・・。したがって、5歳の女児・ひまわりが「どうしてお父さんがいないのだろう」「お父さんに会いたい」と思うことはあり得ない、と私は思う。むしろ「私にはお父さんがいないのがあたりまえ、だって、死んじゃったんだもん」と思う方がリアリティがある。それは、当事者でなければわからないことだと思う。片親が欠けている状態を見れば、「寂しそうに」見える。しかし寂しくはないのだ。そのことの方が「深刻」だと、私は思う。これまでも、このドラマは「絵空事が多い」と感じてきたが、やはり制作関係者は「○○そうに見える」というレベル(言い換えれば傍観者の視点)でしか「現実」を見ていないように思われる。どこかが「現実」とずれているのではないか。そのことを、ある保護者(手をつなぐ育成会・会員)に問いかけてみたところ、以下のような答が返ってきた。「絵空事が多い、ということは当たっています。しかし、真実をそのまま描くと『生々しくて』鑑賞できなくなるでしょう。ドラマ制作の意図は、知的障害があっても周囲の適切なサポートがあれば、幸せな家庭を築き、子育てだってできることを、世間に訴えることにあるのです。一般社会を啓発するドラマであることはたしかだと思いますよ」なるほどそうか、素直に鑑賞(感動)できない私の感性の方に問題があるのだろう、と反省した。
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NHK「クローズアップ現代・知的障害者の雇用」

2008年2月20日(水)晴(三月中旬の陽気)  午後7時30分から、NHK「クローズアップ現代」視聴。知的障害者を雇用する企業の実態をレポートした番組。これまで、知的障害者の仕事イコール「単純軽作業」といった「決めてかかり」「思いこみ」はなかったか。もともと「知的障害」という概念ほど曖昧なものはない。「知能指数」は、脳波、レントゲン、MRIなど、科学的機器で、客観的に測定するわけではない。事物を見分けたり、憶えたり、言葉を聞き分けたりする活動を検査者(人間)との「やりとり」(コミュニケーション)を通して行った結果にすぎないのである。検査者との「相性」が悪ければ、その能力を十分に発揮することはできないだろう。「知能検査」の内容は、「記銘力」(ものおぼえ)と「弁別力」(ものわかり)に大別されるが、そのいずれもが低得点である場合もあれば、片方だけが低得点の場合もある。どちらにしても、総合点が基準に達しなければ「知的障害」ということになり、その特性は千差万別ということになる。つまり、「知的障害」というだけでは、ただ「知能検査の結果、得点が基準(同年齢の平均値)を大きく(75%未満)下回っている状態」という程度の意味しか表せない。  「知的障害」と呼ばれる人の中に、「記憶力抜群」の人もいる。「整理整頓」が得意な人もいる。素晴らしい絵を描く人もいる。コツコツと「単純作業」を持続できる人もいる。「知能検査の結果が低得点である」という一点を除けば、「健常者」と呼ばれる人と比べて、何ら変わるところがないのだ。  知的障害者の仕事イコール「単純軽作業」という「決めてかかり」ではなく、その人の「特性」に注目し、それを「仕事」へと結びつけることができた時、雇用は成功する。高齢者介護の現場では、「てきぱき」ではなく「ゆっくり」の方がよい、「整理整頓」へのこだわりを、品揃えの「仕事」に結びつける、などの成功例は大変興味深かった。昔、中小企業家同友会・「障害者問題委員会」の研修会で「あなたは相手(従業員)を、『減点法』で評価しますか、それとも『加点法』で評価しますか?」という問題を討議したことを思い出す。参加者の結論は、頭では「加点法」の方がよいに決まっているが、現実では「減点法」にならざるを得ない」ということであった。今回のレポートには、その壁を破るヒントが数多く示されているように感じた。
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知的障害者雇用の現場から―心休まらない日々の記録知的障害者雇用の現場から―心休まらない日々の記録
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安部 省吾

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特別支援教育とは何か

2008年2月19日(火)晴  午後6時から、旧友と歓談。久しぶりに「特別支援教育」について考える。昔綴った雑文を思い出した。 特別支援教育とは何か  文部科学省が、小・中学校の集団生活や学習に参加できず「特別な支援」を必要としている○○生徒(特別な教育的ニーズをもつ子)の数を調査したところ、約6%が該当したという。しかし、この実態は、今はじまったわけではない。近代の学校教育が実施されて以来、つねに6%前後の○○生徒は、「特別な支援」を必要としていた。  では、なぜ、今、その○○生徒の問題を取りあげようとするのだろうか。 A このまま放置しておくと、多の○○生徒にも「悪影響」を及ぼしかねない。 B ○○生徒の基本的人権(生活権・学習権)を保障しなければならない。 基本的理念としては、Bで説明されているが、学校現場ではAが「本音」ではないだろうか。 いずれにせよ、この6%の○○生徒にどのような支援をすればよいか、その内容と方法が「特別支援教育」なのである。かつての「特殊教育」は、約2%の○○生徒を対象にした「特別支援教育」であった。今後は、その対象を6%にまで拡げようというのである。 そのようなことが可能であろうか。 『平成17年度版・○○県の特別支援教育』(○○県教育委員会)によれば、公立・小中学校の在籍者数は、小学校331,897人、中学校150,490人である。その6%といえば、小学校で19,913人、中学校で9,029人、合計28,942人ということになり、実に29,000人近くの○○生徒が「特別支援教育」を必要としているという計算になる。現在「特殊教育諸学校」「特殊学級」の在籍者数を、合計すると9323人であり、その3倍以上が「特別支援教育」を必要とする対象者として推定されるのである。  この29,000人に「特別支援教育」を行うのは誰であろうか。 前出書によれば、「小・中学校の学級に在籍しているLDやADHD等の○○生徒への適切な支援を行うため、各学校の要請に応じ、『巡回指導員』がアドバイスを行っています」と説明されているが、「特別支援教育」を行うのは誰なのか。『巡回指導員』は、誰に対して、どのようなアドバイスを行い、その結果はどのようなものなのか、明らかではない。 29,000人に「特別支援教育」を行うためには、最低2900人の「教員」が必要であろう。○○県教育委員会は、その教員数をどのように確保しようとしているのだろうか。○○生徒数が増えたわけではないので、「新規採用」で確保できるはずがない。だとすれば、現在の教員数で「特別支援教育」を行わなければならないことは自明である。 そのようなことが、可能であろうか。  かくて、「特別支援教育」は、その理念だけが「先走ったまま」、<絵に描いた餅>で終わるのである。そのことは、学校関係者の誰もが予感している。  実を言えば、「特別支援教育」を実現できるのは、「特別な支援」を必要とされている6%の○○生徒自身に他ならない。彼らは、「注意欠陥多動」「学習障害」「高機能自閉」などという「レッテル」を貼られながら、現今の「学校教育体制」と果敢に戦っているのである。「集団に入れない」と言われる。その集団とはどのような集団なのだろうか。「集中持続力が乏しい」と言われる。何に対して集中持続すればよいのだろうか。集中持続するに「値する」活動を行っているのだろうか。「文字の読み書きが苦手」だと言われる。どのような学習指導を受けているのだろうか。「コミュニケーションが苦手」だと言われる。相手のコミュニケーション能力はどの程度のものだろうか。  さらに言えば、「特別な支援」を必要としているのは、6%の○○生徒だけではない。それは教員の側が「必要としている」数値にすぎず、○○生徒、保護者の側から「特別な支援」を必要としている数値を調べれば、半数に届くかもしれないのである。  昨今の学校事故例を取りあげるまでもなく、今や「日本の公教育(学校教育)」は、崩壊の一途をたどっている。民営化を視野に入れた「教育改革」は「時間の問題」であろう。 この現状を踏まえ、学校教育の抜本的な改革を実現するために、「特別支援教育」の理念を具現化することが喫緊の課題だと考える。 (2006,1.6)
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「鹿島順一劇団」・《「噂の女」の名舞台》

2008年2月18日(月)晴
 午後1時から、川越三光ホテル・小江戸座で大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)夜の部の芝居は「噂の女」。主演・春日舞子、共演・鹿島順一。配役は、「噂の女」(お千代)、その父(蛇々丸)、弟(花道あきら)、弟の嫁(春大吉)、嫁の父(梅乃枝健)、お千代の幼友達・まんちゃん(座長・鹿島順一)、村人A(三代目・虎順)、B(金太郎)、C(赤胴誠・新人)、D(生田あつみ)という面々である。時代は、明治以後、五百円が、今の百万円程度であった頃だろうか。ある村に、「噂の女」が帰ってくる。まんちゃんは「駅まで迎えに行こう」と、村人を誘うが、誰も応じない。「お千代は、十年前、村に来た旅役者と出奔し、その後、東京・浅草の淫売屋で女郎をしているというではないか。そんな不潔な女とは関わりたくない」と言う。まんちゃん「そんなことは関係ない。みんな同じこの村の仲間ではないか」村人「とんでもない。そんな女に関わるなら、お前は村八分だ」まんちゃん「村八分、結構!もともと、俺なんかは村では余計物、俺は一人でもお千代タンを迎えに行くぞ」、村人「勝手にしろ。お前はいくつになっても、足りんやっちゃ、この大馬鹿もの!」  
 やがて汽笛の響きと共に列車が到着、まんちゃんはお千代の荷物を持って大喜び、一足先に、お千代の父宅に持参する。やがて、東京暮らしですっかり垢抜けたお千代も帰宅、父はお千代が好きだった「揚げ豆腐」を買いに出て行った。後に残ったのは、まんちゃんとお千代の二人きり、まぶしい太陽でも見るようにまんちゃんが言う。「お千代タン、よう帰ってきてくれたなあ。オレ、ずうっと待っていたんだ」「どうして?」「だって、ずっと前から、オレ、お千代タンのこと好きだったんだもん。」「あんた、あたしが浅草でどんな商売しているか知ってるの?」「知ってるよ。男さんを喜ばす仕事だろ。みんなは、汚い、穢らわしいと言うけど、オレはそう思わない。お千代タンは、人を騙したり、傷つけたりしていない。人を喜ばす大切な仕事をしていると思うとる」「ほんとにそう思うの?」「ああ、本当だ。できれば、お千代タンと一緒に暮らしたいんだ、キーミーハ、コーコーローノ、ツーマダーカラ・・・」思わず絶句するお千代。よく見ると泣いている。「アンタ、泣イイテンノネ、オレまた何か、まずいこと言っちゃったんかな?」「そうじゃないのよ、嬉しくて涙が止まらないの」「フーン?」しばらく沈黙、意を決したようにお千代「まんちゃん!あたし、まんちゃんのお嫁さんになる!」動転するまんちゃん「何だって?今、なんて言った?」「あたし、まんちゃんのお嫁さんにしてくれる?」「そうか、オレのお嫁さんになってくれるんか。へーえ、言ってみるもんだなあ」かくて、二人の婚約は成立した。そうとなったら善は急げだ。こんな村など、さっさとおさらばして、東京へ行こう。まんちゃんは小躍りして旅支度のため退場。そこへ父、帰宅、弟夫婦も野良仕事から戻ってきた。しかし、二人の表情は固い。土産を手渡そうとするお千代に弟は言い放つ。「姉ちゃん、何で帰ってきたのや。村の人たちはみんな言ってる。あんな穢らわしい女を村に入れることはできない。もし居続けるようなことがあったら村八分や。おれたち村八分になってしまうんや。姉ちゃん、それでもいいのか。はよう、この家から出て行ってくれ!」父が激高した。「お前、姉ちゃんに向かって何てことを言うんだ」弟も反駁。「隠居の身で大きな口たたくな。今はおれこそが、家の大黒柱、それに姉ちゃんは十年前、おれが病気で苦しんでいたとき、旅役者と駆け落ちしたんじゃないか!」「何だって、もういっぺん言ってみろ」「ああ何度でも言ってやる。姉ちゃんはおれたちを見捨てて、淫売女になり果てたんだ。そんな女をこの家に置いとくわけにはいかない」「よーし、お前がそこまで言うんなら、わしも黙っているわけにはいかない!」必死で止めようとするお千代を制して、父も言う。「おまえが病気の時、姉ちゃんが出て行ったのはなあ、お前が町の病院で治してもらうお金のためや。姉ちゃんは、自分の身を売ってお前の治療代を作ったんだぞ!、病気が治ったのは姉ちゃんのおかげ、それを今まで黙っていたのは、お前を心配させないためや」「・・・・」絶句する弟、「何だって!何で、今頃そんなこと言い出すんや。もう遅いわい」そこへ、弟嫁の父、登場。「やあ、お千代さん。よう帰ってきたなあ・・・。サチヨ(嫁)、もうお姉さんに御挨拶はすんだのか?」だが、その場の様子がおかしい。一同の沈痛な表情を見とって自分も沈痛になった。「やあ、困った、困った。実に困った」、「何が?」と問いかける弟に「実はな、ある人の借金の保証人になったばっかりに、五百円という大金を負わされてしまったんだ。何とかならないだろうか?」「えっ?五百円?そんなこと言われたって、見ての通りの貧乏暮らし、そんな金どこを探したってあるはずがない」弱気になる弟に、隠居の父がつっかかる。「お前、さっきなんてほざいた。この家の大黒柱じゃあなかったんか」やりとりを黙って聞いていたお千代が口を開いた。「おじさん。五百円でいいの?ここに持っているから、これを使って。これまで、身を粉にして貯めたお金よ。家に帰ってみんなの役に立てればと思って持ってきたの。私が使ったってどうせ『死に金』、おじさん達に役立ててもらえば『生きたお金』になるじゃないの」一同、呆然、弟夫婦は土下座して声が出ない。肩が小刻みに震えている。お千代、キッとして「もう、いいの。このまま浅草に帰るわ。また、あそこでもう一回、頑張って生きていこうと思います」、「待ってださい」と引き止める弟夫婦、その両手をやさしく握りながら、「あっ、そうだ!忘れていた。お父さん、あたし好きな人ができたの。あたしその人のお嫁さんになるの!」一同、驚愕。「えっ?誰の?」お千代、涼やかに、「まんちゃんよ!」すっかり、旅支度を整えたまんちゃん、踊るように再登場、舞台も客席も、笑顔の花が咲き乱れる。まんちゃん「まあ、そういうことで、お父上、今後ともどうぞよろしくお願いいたします」弟嫁の父、そっとお千代に近づき「やあ、めでたい、めでたい、そういうことなら、これは私からのお祝いだ」さっきの五百円を手渡そうとする。「だって、おじさん!これは借金の返済に使うお金・・・」「なあに、心配ご無用。さっきの話は私の作り話、一芝居打ったのさ!」舞台に流れ出す、前川清の「噂の女」、まんちゃんとお千代、花道で颯爽と見得を切る。さっと振りかざした相合い傘の骨はボロボロ、破れガサがことのほか「絵」になる幕切れであった。「襤褸は着てても、心は錦、どんな花より綺麗だぜ、若いときゃ二度ない、どんとやれ、男なら、人のやれないことをやれ」、まんちゃんの心中を察して、私の心も洗われた。
 大衆演劇に共通する眼目は、「勧善懲悪」「義理人情」だが、もう一つ「人権尊重」という主題が秘められていることを見落としてはならない。「村八分」という差別観に敢然と立ち向った「まんちゃん」(余計者・与太郎)とお千代(賤業者)の行く末は?、それを決めるのは、他ならぬ私たち一人ひとりの「心模様」なのではないだろうか。
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幻の名曲「哀愁の駅」(松山恵子)、幻の名随筆「和っちゃん先生」(マルセ太郎)、加えて駄作「男はつらいよ・考」

2008年2月17日(日)晴
一日中、家。午前11時頃、ラジオ(NHK)から、魅力的な流行歌が聞こえてきた。その題名は「哀愁の駅」、唄っているのは松山恵子である。彼女の代表歌は「お別れ公衆電話」「だから言ったじゃないの」など、振られた女の「せつない」怨み節だとばかり思っていたが、まさに「幻の名曲」に値するのではないか。歌詞の中に「10時45分」とか、(大阪駅ホームの)「11番線」とか、「数字」が盛り込まれ、それをいかにも「手慣れた」小節で唄いこなす松山恵子の歌唱力にあらためて感動した。津村謙には「流れの旅路」、ディック・ミネには「愛の小窓」、渡辺はま子には「雨のオランダ坂」、トミー・藤山には「ほんとにそうなら」、五木ひろしには「霧の出船」、北島三郎には「加賀の女」、都はるみには「おんなの海峡」、そして美空ひばりには「流れのギター姉妹」など、大きなヒットをしなかった「幻の名曲」と呼ばれるものがある。松山恵子にも「幻の名曲」があったのだ。
 「日本の名随筆・芸談」(和田誠編・作品社・1996年)読了。私自身の「煩悩」のため、「芸人風情が随筆なんて十年早い」と思いながら、徳川夢声、山本嘉次郎、五代・古今亭志ん生、團伊玖磨、藤原義江、黒澤明、美空ひばり、嵐寛寿郎、芥川比呂志、六代目・三遊亭円生、野村万作、高峰秀子、二世・尾上松緑、森重久弥、加藤武、池部良、マルセ太郎、小沢昭一、山下洋輔、立川談四楼、吉田日出子、鴨下信一、岩城宏之の芸談を読んだ。八木正生、井原高忠、黒柳徹子、長嶺ヤス子、倉本聰の作物は、読まなかった。 功を遂げ、今や「有名人」となった芸人の談義には、とかく下積み時代の苦労話や、途上における自慢話がつきもので、鼻持ちならない。この書物の中、でただ一編、素晴らしい作物があった。それは、マルセ太郎の「和っちゃん先生」という随筆である。「和っちゃん先生」とは、知る人ぞ知る「日劇ミュージックホール」の座長格の芸人・泉和助(父は陸軍大将、日本の敗戦時に自決)のことで、彼を師と仰ぐマルセ太郎との交流が、さわやかな筆致で描かれている。苦労話も、自慢話もない。ただひたすら「和っちゃん先生」の類い希なる実力と芸域の広さが述べられているだけである。なかでも「まず教わったとおりにやれ」という一節に、私は感動した。<コメディアンたちは何度も出番があって、結構忙しい。一回しか出番のない僕は、それがうらやましかった。何かの景が終わって楽屋にコメディアンたちが戻ってきたとき、その中のSが、和っちゃん先生に、厳しく叱られていた。怒るところを見るのは珍しいことである。いつも誰彼なしにジョークを連発して陽気に笑っていたから、側にいた僕は、自分が叱られているかのように緊張した。事情は、Sが演技に迷って、和っちゃん先生に工夫を質ねたらしいのだが、Sは教わったとおりにやらなかったのである。Sの弁解は、その工夫は和っちゃん先生だからできることで、自分には向かないと判断したからだと言う。「だったら何故俺に訊いたのだ。簡単に、何でもかんでも相談するんじゃない。いったん教わったら、まず教わったとおりにやれ。お前な、道を訊いてだよ。その角を右に曲がれと言われたら、ともかく右に曲がるだろう。それで見つからなかったら、今度はお前の判断だ。初めっから右に曲がらなかったら、教えてくれる人に失礼じゃないのか」真理である。僕の周りにも、やたら教えを乞う芸人たちがいた。そういう連中に限って、ほとんど教えをきいてない。自信のある芸人は滅多にひとに訊かないし、何かを指摘されたら、ちゃんと後日それを芸に生かしている。>
 現役時代、私もまた職場で同様の経験をしている。近頃では、大衆演劇を見聞した感想を各劇団の座長に送付しているが、彼らは文字通り「何かを指摘されたら、ちゃんと後日それを芸に生かしている」のである。 
 また、こんな一節もあった。<ある晩舞台がはねた後、上機嫌の和っちゃん先生がみんなに、これから飲みに行こうと声をかけた。僕はわくわくして、そんな中に交わることのできる自分が、いかにもプロの芸人になったような気分だった。コメディアンの一人が、彼は割合売れていて、といっても、その頃はラジオだが、「すみません、NHKの録音取りがありますので、僕は失礼させていただきます」早々と帰り支度のできた彼は、そう丁寧に断って行きかけるのを、和っちゃん先生は呼びとめた。やさしく笑いながら。「そういうときはな、(小指を立て)これが待っていますので、と言うんだよ。ハイ、行ってらっしゃい」このときのことは強く印象に残っていて、忘れることがない。芸人仲間への粋な心遣いを教わった。>
さらに、<日劇ミュージックホール時代の和っちゃん先生は、脂ののったときでもあったが、いまいうところのメジャーではなかった。僕でさえ、日劇に出るまでは全く知らなかったから、一般には無名である。(略)何かの時に和っちゃん先生は言ったことがある。「俺が先生と呼ぶのは、榎本のおやじを除いて、森川のおじちゃんだけだ」「男はつらいよ」の初代おいちゃん、森川信のことである>という一節もあった。そして、<昭和四十五年(1970)二月二日、和っちゃん先生は、誰にも看とられず、独り逝った。五十歳だった。何と、僕とわずか十四歳しか離れていなかったのである。そしていま、僕は和っちゃん先生の年齢をはるかに越えている。>という終章。
マルセ太郎の芸談は、終始「和っちゃん先生」について語りながら、あくまで控えめに自分自身を(「和っちゃん先生」のおかげ自分の現在があることを)語っているのである。まさに「文は人なり」、彼の品格の高さを窺わせる「名随筆」であった。
 「煩悩」の塊である私自身は、今日もまた懲りずに「森川信」という名優の名前を聞い
て、昔綴った「雑文」を思い出した。

「男はつらいよ」考
 もともとヴォードヴィリアンだった渥美清を,国民的な俳優に仕立て上げたのが映画「男はつらいよ」のシリーズであったが,そのことで渥美清は本当につらくなってしまったのだと,私は思う。浅草時代の関敬六,谷幹一,テレビ時代の平凡太郎,谷村昌彦らと同様に,渥美清はスラップ・スティック・コメディの喜劇役者であってこそ光り輝く存在であった。映画「男はつらいよ」は48本作られたが,テレビ時代に比べて出色の作品は少なかった。その要因はいくつか考えられるが,一言で言えば,製作関係者が第一作の大当たりを契機に興行成績を優先したことであろう。人気が続く限り,車寅次郎は,渥美清が死を迎えるまで死ねなくなったのである。生きることは,いつ終わるともわからない演技を続けることだといえなくもないが,それが仕事となれば男でなくても「つらいよ」と溜息がでてくるのは当然である。
テレビの「男はつらいよ」の原題は「愚兄賢妹」という人情喜劇として企画された。やくざなテキ屋稼業の愚兄・車寅次郎(渥美清)の行状を,賢妹・さくら(長山藍子)が物語るという形で展開する,どちらかといえばスラップ・スティック・コメディに近いできばえであった。
いうまでもなくドタバタ喜劇は,複数の役者の集団演技によって組み立てられる。渥美清の演技力は,周囲の役者に因るところが大きいが,特に車竜造役・森川信の存在は大きかった。ヴォードヴィリアンとして卓越した風格の森川信に比べれば,渥美清の演技などは,まだまだ「駆け出しもの」のそれでしかないのである。渥美清と「殴り合い」を演じて様になるのは,森川信をおいて他にいない。というより,渥美清は,森川信という大先輩の胸を借り,その懐に育まれて初めて車寅次郎という人物を演じることができたといっても過言ではないだろう。渥美清は,森川信の前だからこそ,自分の演技力を思う存分,十二分に発揮できたのだと思う。「馬鹿だねえ,あいつは。本当に馬鹿なんだから」と,竜造が受け止めてくれたからこそ,寅次郎は本当に馬鹿ができたのだ。
映画の時代になっても,森川信が出演する作品までは,渥美清の演技力は精彩を放っていたが,竜造役が松村達雄,下条正巳になったとたんに全く消沈してしまった。つまり,寅次郎の「柄の悪さ」「品のなさ」を受け止め,ある種の風格へと昇華してくれる人物像がいなくなってしまったのである。テレビ作品の第一作で,森川信の竜造は,寅次郎が連れてきたテキ屋仲間と深夜までどんちゃん騒ぎを続け,挙げ句の果てに「後家殺しの竜」とまで口走って,おばちゃん(杉山とく子)にひっぱたかれるのである。
そういえば,おばちゃん役の杉山とく子も出色であった。おばちゃんは決して聡明ではないし,庶民特有の計算高さも身に付けている。単なるお人好しではないのである。うらぶれた下町のおばちゃんの,一見いじわるそうで実は憎めない,一本気な女性像を杉山とく子は鮮やかに演じていた。だからこそ寅次郎は,そうしたおばちゃんの前でも,遠慮なく馬鹿ができたのである。
テレビでは,家を出てから十余年ぶりに寅次郎が柴又に帰ってきたとき,おばちゃんは顔を直視しても,寅次郎が誰だかわからなかった。しかし,映画のおばちゃん役・三崎千恵子は,帝釈天のお祭りの雑踏の中で,何の苦もなく寅次郎を見つけだすことができた。聡明という他はない。三崎千恵子のおばちゃんには,杉山とく子のような毒気がない。根っからのお人好しなのである。まだ森川信がいる間はともかく,竜造役が変わってからは寅次郎の「柄の悪さ」「品のなさ」に付き合ってくれる役者は消滅し,ドラマの中だけでなく渥美清の「つらさ」は倍増したに違いない。
同じことは,テレビのさくら役・長山藍子,映画の倍賞千恵子,博(士)役・井川比佐志,前田吟についても言える。結論すれば,前者は「影」「大人」「夜」のイメージ,後者は「光」「青春」「太陽」のイメージとでもいえようか。
長山藍子,井川比佐志の演技には,どこか思わせぶりな「影」(秘密)の部分があった。しかし,倍賞千恵子,前田吟の演技は,直情径行であり,全てをさらけ出しているように感じる。言い換えれば,映画のさくらと博は,「健全」そのものなのである。彼らもまた,聡明であり,毒気がない。
映画を見た人たちから,車寅次郎は不感症ではなかったか,という感想を聞いたことがあるが,そうではないと私は思う。車寅次郎は本人も言うとおり「あても果てしもない」渡世人の生活をしているのであって,「不健全」そのものに他ならない。その生活をリアルに表現すれば,鶴田浩二,高倉健らが演ずる任侠映画の世界と変わらなくなってしまう。車寅次郎のマドンナ以外との濡れ場などは「絵」として不要だっただけである。「殺したいほど惚れてはいたが,指も触れずに別れたぜ」と唄うだけで十分であった。テレビ時代にあった,「影」「大人」「夜」のイメージは払拭され,渥美清は,存在するはずのない,健全なやくざ「フーテンの寅」を独りで演じ続けなければならなかった。
森川信が出演しない映画作品の中で,唯一,秀逸の作品があった。「男はつらいよ・霧にむせぶ寅次郎」である。筋書きそのものは,他と同様のパターンであるが,テレビ時代にあった「影」「大人」「夜」のイメージやドタバタの場面が,わずかに表れていたのである。マドンナは,フーテンの風子(中原理恵),その愛人がオートバイサーカスのトニー(渡瀬恒彦),他にも関敬六,谷幹一,津坂匡章(後の秋野大作),美保純など役者はそろっていた。
どこが秀逸だったかと言えば,マドンナ・風子の「柄の悪さ」「品のなさ」が,一時ではあるが,寅次郎と真っ正面から対立し,虚飾に満ちた健全ムードをぶちこわした点である。場所はとらやの店内,竜造の口利きで風子の就職先も決まった,風子はトニーに別れ話をつけに行くという,寅次郎は「あいつのところだったら行くことはない,さっき話をつけてきた」といって風子を止める。風子はカチンときた。「頼まれもしないことをどうしてしたのか,寅さんとは関係ない」といって寅次郎を責める。寅次郎は「関係ない?」と言って言葉を失った。おいちゃんも,おばちゃんも「寅ちゃんはあんなに心配していたんだから,関係ないはないだろう」と寅次郎に助け船を出した。風子は,頭に来た。「じゃあ,私とトニーが話し合ってはいけないと言うんですか」寅次郎は,わかったように風子をたしなめる。「話し合ったってしょうがないじゃないか,あんな遊び人と」その言葉に風子は激昂した。「遊び人だったら寅さんだってそうでしょう,渡世人同士だって,さっき言ったじゃないか」寅次郎にはもう返す言葉がない。さくらに取りなされて,風子は本当の気持ちをうち明けた。「トニーはだらしなくて,甘えん坊でやぶれかぶれ,そんなことはわかっている,でも私さえちゃんとしていればいつかはきっと帰ってくれる,そう思ってつきあっていたんだよ」
風子の,この気持ちを誰も責めることはできない。なぜなら,他ならぬさくら,おいちゃん,おばちゃん,そして博たちが日頃寅次郎に抱いている気持ちと瓜二つのものであったからだ。健全な博がつぶやいた。「こんな悲しい結末になるなんてなあ・・・。」もはや寅次郎の出る幕は完全になくなったのである。
実を言えば,この少し前に,寅次郎がトニーに話をつけに行く場面があった。場所はトニーが寝泊まりしている安アパートの近く,ビルの谷間を流れる汚れた運河の船着き場,ショーの失敗で骨折した左腕を吊りながら,トニーがやってくる。寅次郎は言った。「用件はわかっているだろうな,ズバリ言わしてもらうぜ,手を引いてもらいてえんだ」トニーの表情が変わった。「女のことで他人に指図されたくなんかねえな」,柄の悪さではトニーの方が上であった。寅次郎ははしかたなく談合を試みる。「お互いに渡世人同士じゃないか,こっちの気持ちもわかるだろう」「あの子(風子)は苦労して育ったからな,どこか無理しているところがある。やくざな女に見えるけど,本当はそうじゃない,まともな娘だ,所帯をもって,子どもを生んで,幸せになれる娘だ,そう思わねえか」トニーは言った。「二十歳の若造ではありませんからね,それぐらいのことはわかっています,だけどね,東京についていくといったのは,あの子の方なんですよ」寅次郎は謝った。「だからこそ,こうして頭を下げて頼んでいるじゃねえか,頼む,この通りだ。」トニーはニヤリとして捨てぜりふを吐いた。「アニさん,見かけによらず,純情ですね,ジャ,ゴメンナスッテ」その場に立ち尽くした寅次郎は,静かに頭を垂れるだけだった。
この時,映画「男はつらいよ」シリーズは終わったのだ,と私は思う。テレビ時代から車寅次郎が売りにしていた「柄の悪さ」「品のなさ」は,トニーという渡世人(渡瀬恒彦)の登場によってもののみごとに粉砕されてしまっていたのである。
とらやでの風子との悲しい結末は,そのだめ押しに過ぎなかった。
筋書きは,例によって健全路線に修正し,風子の結婚式へと進む。北海道・養老牛温泉で行われた式場近くの森の中で,熊も登場するスラップ・ステップ・コメディ風に大団円となる。
それにしてもトニーという渡世人はどこへってしまったのだろうか。渡瀬恒彦の演技は森川信と肩を並べるほどの風格をもっていた。映画「男はつらいよ」シリーズに登場する人物の中で,トニーほど「影」のある,崩れた,破れかぶれのキャラクターは存在しなかったのではないか。例の任侠映画の人物がいきなり登場してきたようなものであった。だからこそ「男はつらいよ・霧にむせぶ寅次郎」は秀逸なのである。映画のシリーズの中では,紅京子(木の実ナナ),リリー(浅丘ルリ子),ぼたん(太地喜和子)など,寅次郎と同類の人物も登場していたが,彼の「柄の悪さ」「品のなさ」を,ある種の風格まで昇華させることができた役者は皆無だった。さらに風子とトニーという渡世人の登場によって,車寅次郎の風格は見るも無惨に引きずりおろされたのである。 しかし,映画「男はつらいよ」シリーズの製作関係者は,そのことに気がつかなかった。だから,もう出る幕のない車寅次郎を,延々と,俳優・渥美清の寿命が尽きるまで,退屈な舞台に登場し続けさせたのである。合掌。
(2003.5.7)







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「劇団武る」・《都美千代の「魅力」》

2008年2月16日(土)晴
 午後5時から浅草木馬館で大衆演劇観劇。昨日に引き続き「劇団武る」(座長・三条すすむ)。芝居は「かんぱち・身代わり仁義」創作舞踊は「片割れ月夜」。昨日の座長の口上では「面白いお芝居」とのこと、期待して観に来たが、結果は以下の通りであった。 <ミニショー>①旅姿三人男(都たか虎・夜桜紫龍・中村直斗):三人とも舞踊の「実力」は「水準」またはそれ以上であるが、振り・表情の中に、「三人男」(大雅・小政・石松)の特徴が表れれば言うことはないのだが・・・。②「大阪すずめ」(都かれん):東京女に対する大阪女の意地を秘めて、「浮き浮き」と「弾むような」雰囲気が出てくれば・・・。(しっとり踊る必要はない)③「ヨンハチヨンのブルース}(副座長・藤千乃丞):「楷書的」な芸風に好感が持てる。④「唐獅子牡丹」(都たか虎):音楽はロック調、しかし衣装・振りは「高倉健」風、というアンバランスが目立った。いっそのこと、サングラスに須賀ジャンで「洋舞」に徹した方が雰囲気が出るだろう。⑤「見返り美人」(都なつき・都美千代):表情は「美人」だが、身体全体で「美人」をあらわせたらなぁ・・・。(「ちょっぴり美人」(「お祭りマンボ)でいっこうにかまわない)⑥「なにわの花」(座長・三条すすむ):衣装(かつら)・表情・所作・振り、を「総動員」して「藤山寛美」(もどき)を演じられればなぁ・・・。月城小夜子との「相舞踊」が実現できれば最高の舞台になるだろう。
<芝居・「かんぱち・身代わり仁義」>:なるほど座長の口上どおり、面白かった。特に、舞台を盛り上げていたのは、旅籠・吉野家の姉娘・おすみ(都美千代)である。この女優は、どんな芝居でも「とぼけ」「そっけなさ」「淡々」といった芸風で、味がある。「演技」の中に、自分の個性(地)を「取り混ぜられる」貴重な存在である。概して、「劇団武る」の芝居は「本格派」で、「重厚」「迫真」「緊張」に満ちた「葛藤」「愁嘆」を真骨頂としているが、そんな中で「ほっと息抜き」する場面を作り出せるのが、彼女ではないだろうか。同様に、まだ駆け出しの新人・都ゆうたろうの「とまどい」「不慣れ」な演技も、花を添えている。まだ「蕾」にもなり切れない新人に声をかけ、温かく見守る座長、先輩座員のチームワーク(やさしさ)に、私は感動する。座長、副座長、指導・勝次朗、重鎮・中山大輔、女優・月城小夜子らの「実力者」、それに次ぐ、夜桜紫龍、中村直斗、都美千代らの「演技派」、若手の都なつき、都かれん、都ゆうたろうと、まさに「役者は揃っている」。この芝居では、座長と副座長が「義理の兄弟」、「二枚目」を競い合う設定も面白かった。副座長が、「年下なのに可愛さでは座長に負ける」とぼやいていたが、まさにその通り、コミックで可愛い座長、「二枚目」は「楷書的」な副座長、という役割分担(二枚看板)に徹することで、今後の展望が大きく開けるのではないかと思う。座長の女形は、絶品であり、若葉しげる、市川千太郎、(場合によっては女優・市川恵子、月城小夜子)と「肩を並べている」(勝るとも劣らない)のである。
<舞踊ショー>①花笠月夜(たか虎・紫龍・直斗・かれん・美千代・なつき)②「風雪流れ旅」(座長)③悲しい酒(副座長)④人間劇場(直斗)⑤すきま風(歌唱・座長)⑥あいつ(紫龍)⑦じょんがら子守唄(かれん・みちよ・なつき)⑧うちの人(月城)⑨八木節一代(紫龍)⑩傘の中(副座長)⑪ランド(?)舟歌 ⑫時代屋の恋(座長)⑬雨の大阪(勝次朗)⑭ラストショー・片割れ月夜
 以上がその演目であった。舞踊ショーの眼目は、「踊りを観せながら、実は、歌を聴かせる」ところにある。観客は、歌そのものが秘めてる三分間のドラマを、役者の舞踊でたしかめ(噛みしめ)ているのである。だとすれば、歌そのものの「良し悪し」が、舞踊の「できばえ」を左右することは必定であり、まず選曲に細心の注意を払うことが肝要であろう。つまり、舞踊ショーの演目は、「流行歌」として一級品の作物をとりいれることが肝腎である。一級品の「流行歌」と、一流の「舞踊」が「合体」したとき、「至芸」が誕生する。今日の舞台では、副座長・藤千乃丞の「悲しい酒」が相当する。(ただし、「悲しい酒」は、都はるみ、文殊蘭の作物もあるので、それらを聴き比べながら、踊り分けられるようになれば、まさに「至芸」に値するだろう)「傘の中」(五木ひろし)も「水準」を超えていたが、「楷書的」芸風のためか、やや「男の色香」が不足気味だった。「風雪流れ旅」「時代屋の恋」(座長)、「うちの人」(月城小夜子)、「雨の大阪」(勝次朗)は、いずれも「舞踊」は一流、申し分ないのだが、「歌」の方がそれに及ばない。(選曲のミスだと思う)息抜きとして、(あるいは若い客層に合わせて)観せるだけの「舞踊」(ジャズ、ロック調、曲芸風ののダンス)があってもかまわない。しかし、その演目だけが続くと「飽きる」ので気をつけたい。 
 ちなみに、これまで私が観た「舞踊ショー」の中で「至芸」に値する演目は以下の通りである。①「明日はお立ちか」(梅澤隆子)②「それは恋」(梅澤武生・梅澤富美男)③「お吉物語」(大川龍昇)④「俵星玄蕃」(南條影虎)⑤「麦畑」(荒城蘭太郎・子役)、⑥「浪花花」(鹿島順一)、⑦「忠義桜」(鹿島虎順)、⑧「安宅の松風」(蛇々丸)。以上、昨日の「不満足な気持ち」を払拭して、帰路につくことができた。
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島の娘/明日はお立ちか島の娘/明日はお立ちか
(1998/11/21)
小唄勝太郎

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浅草「劇団武る」と十条「劇団九州男」

2008年2月15日(金)晴
 正午から、浅草木馬館で大衆演劇観劇。「劇団武る」(座長・三条すすむ)、前回、芸名がわからなかった役者がわかった。若手・中村直斗、都たか虎、都ゆうたろう、夜桜紫龍、女優・都美千代、都なつき、都かれん、それにベテラン・中山大輔といった面々である。芝居は「笹川乱れ笠」(「天保水滸伝」の外伝?)、笹川繁蔵が飯岡助五郎の放った刺客(旅鴉・座長)に殺される筋書であった。本格的な「任侠劇」で、「実力」も申し分なにのだが、「息抜き」(力を抜いて客を笑わせる)場面が全くなかった。それはそれでよいと思うが、ではどこを「見せ場」にしているのだろうか。刺客が笹川一家の代貸し・子分達に「わざと討たれる」場面、血糊を使って壮絶な風情を演出しようとする意図は感じられる。だが、客の反応は「今ひとつ」、表情に明るさが見られなかった。やはり、観客は、笑いのある「楽しい」舞台を観たいのだ。舞踊ショーでは、藤千乃丞の「お蔦」、座長の「愛燦々」(いずれも女形)が印象に残った程度で、全体的に盛り上がりに欠けた。舞踊に使う音楽は、それ自体が「鑑賞に耐えられる」ものを選ぶべきだと思う。吉幾三、鳥羽一郎、林あさ美、氷川きよし等、「二流どころ」の歌は聞き飽きた。「不満足」な気持ちを引きずりながら、東十条に向かう。
 午後6時30分から、篠原演芸場。「劇団九州男」(座長・大川良太郎)。入場者の行列に並びながら、表看板の役者名を大急ぎでメモする。それによると、「大川良太郎、日本正美、三條千尋、たくや、みずき剛、九条かおり、むらさき要、東城真紀、三村由布子、金沢伸吾、杉九州男」とあった。こちらの劇場は「大入り」、顔見世ミニショーの舞台から、楽しく明るい雰囲気が漂う。三條千尋とむらさき要の相舞踊は、ほとんど「座ったまま歩く」という曲芸に終始していたが、その表情、所作が「楽しく」、観客の笑いを誘っていた。昔、梅澤武生が「お客さんは日頃の疲れ・ストレスをとるために来ているのだから、明るく楽しい舞台になるよう心がけている」というような話をしていたが、まさにその通りで、「楽しい」ことが大衆演劇の条件なのである。芝居の外題は「ザ・○○」(○○は失念)、会津小鉄一家の外伝で、いわゆる「間男征伐」の、他愛もない筋書だったが、それぞれの役者が適材適所に配置され、十分に楽しめた。特に、新人(23歳)のみずき剛が「用心棒の先生」(ちょい役)に抜擢され、たどたどしいセリフ回し、刀使いが、未熟なだけに初々しく、一つの「魅力」に変化(へんげ)してしまうという、大衆演劇ならではの舞台を観ることができた。舞踊ショーの番付も、若者向けの洋舞あり、その直後は年寄り向けの日本調ありで、「次は何だろう?」という客の期待を裏切ることはなかった。座長の「里見要次郎」もどきは徹底し、さらに磨きがかかった(自分の芸風に自信をもった)ように感じる。杉九州男の芝居・舞踊・歌唱も「一流」、特に「さざんかの宿」の歌声は、鹿島順一の歌唱に勝るとも劣ることはなかった。(歌手・大川栄策よりも優ることはいうまでもない)
 「劇団武る」と「劇団九州男」を比べると、役者の実力において「差」はない。「演出」の方向が違うのだと私は思う。どうやって客の耳目を惹きつけるか、前者は、誠心誠意まじめに「演じる」(熱演)方向、後者は客の反応を見ながら(呼吸をはかりながら)柔軟に「演じる」(軽演劇)方向を目指しているように感じる。過日観た芝居、「劇団武る」の「おさん徳兵衛」は、「ザ・○○」よりも「格が上」、しかし、今日の「笹川乱れ笠」よりも「劇団・九州男」の「ザ・○○」の方が楽しく、面白かった。ことほどさように、大衆演劇の舞台は、文字通り「浮草物語」で「仕掛け花火」に似た「儚さ」が漂っているといえるだろう。
浅草での「不満足な気持ち」を払拭し、東十条から帰路についた。




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テレビドラマ「だいすき」(TBS)とドキュメント「明るい“遺影”撮影会」(NHK)

2008年2月14日(木)晴
 午後10時から、テレビドラマ「だいすき」(TBS)視聴。中度の知的障害とされる「柚子」という女性が、健常児とされる娘「ひまわり」を育てる物語で、「子育て」の原点は「愛」であり、「体面」「面子」「虚栄」に惑わされた健常者の「育児」とは無縁であることを主張したい意図は窺える。要するに、制作者は「愛があれば能力の差なんて・・・」ということが言いたいのかも知れない。その理念は正当だと思われるが、物語の「出来事」(エピソード)は、漫画チックで「絵空事」に近いように思う。子役の「ひまわり」にはリアリティが感じられるが、母親「柚子」のキャラクターがぼやけている。現実に、周囲の支援を受けながら「子育て」を展開している母親がどれだけいるか、私は承知していない。しかし、「全国手をつなぐ育成会」という保護者の団体がドラマの監修をしているのだから、あながち「絵空事」でもないのだろう。「どこか違う。ぴんと来ない」と感じながら視聴を終えた。
午後11時からNHKテレビ「ドキュメント現場 明るい“遺影"撮影会」視聴。滋賀県の高齢者デイケアセンターで、プロのカメラマンが、利用者の「(人生が輝く)その一瞬の最高の笑顔」を遺影として撮影する現場をドキュメントしたものである。仕事とはいえ、一人の撮影に約1時間を費やしたカメラマンの「心意気」と、写し出された「最高の笑顔」(作品)の「できばえ」に感服した。笑顔を引き出すポイントは、高齢者の話を「よく聴くこと」であることが解る。表情は「コミュニケーション」のバロメーターであり、その喪失は、「社会的な死」を意味する。要するに、高齢になればなるほど「話し相手」がいなくなるということである。それにしても、高齢者とは、「ただ死を待つだけの」存在なのだろうか。今後「明るい死に方」とはどのようなものかを試行錯誤することが、喫緊の課題だと思われるが、「明るい“遺影"撮影会」はその一例として有為な取り組みだと思った。





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大衆演劇の「大衆」

2008年2月12日(火)
 「労働者文学賞2008応募作品」(大衆演劇の「大衆」)脱稿。今日、書き下ろした部分は以下の通りである。

さて、大衆演劇の「大衆」(観客)の中で見逃せない存在がある。
私が行きつけの「健康センター」、舞台は二部の「舞踊ショー」に移っていた。ふと気がつくと、私の右隣に老女が一人、座布団に座って、何やらつぶやいている。しかも、うつむいたままで、ほとんど舞台の方を観ていない。舞踊の音楽に合わせて、身体を動かすこともある。「何だ、舞台を観ないで何をしてるんだ!」と思うと、私の関心はその老女の方に向いてしまった。「このおばあさんはどうして舞台を観ないのか。どんなとき、舞台を観るのか」ひそかに観察していると、舞台を観ないのではない、ほんの「一瞬」顔を上げることがある。そして何やらつぶやき、うつむく。「そうか!」、私は直感的に納得した。彼女は、私が十五年間、働いていた「職場」(かつての養護学校、現在、特別支援学校)の卒業生(仲間)に間違いない。そうだったのか!、舞台がはね、観客は三々五々退場するが、彼女はその場に座ったままである。客席に誰もいなくなった頃、ゆっくりと立ち上がり出口に向かう。「送り出し」の役者が深々と頭を下げ、彼女の手を握る。ニッコリした老女は、ゆっくりゆっくり「健康センター」の館内を歩き出した。「もう夜も遅い、一人で帰れるのだろうか」と思案する私を尻目に、彼女が向かったのは、「女性用仮眠室」、入り口で毛布を一枚手にすると、その姿は見えなくなった。誰の手も借りず、自分の意志で、独り「大衆演劇」を鑑賞する彼女の姿に私は感動した。 世間では「障害者」と呼ばれる人たち、彼らもまた「大衆演劇」の「大衆」であり、「劇団」(役者)にとっては、かけがえのない存在(神様)なのである。
 「若葉劇団」座長・若葉しげるは、客席から突進気味に「花を付け」に来たダウン症の青年に、深々と頭を下げ、謝意を示す。「里見劇団進明座」座長・里見要次郎は、前述した言語障害の青年と舞台で目が合い、「よく、おいで下さいました」と、親しみを込めて平伏する。「鹿島劇団」座長・鹿島順一は、最前列に通いつめる女性客(障害者)に「毎日、おいで頂きありがとうございます。もうこうなったら、私は、あなた一人のために芝居をします。あなた一人のために踊ります。よーく、見ていてくださいね」と声をかける。このような光景は、全国津々浦々の劇場では「日常茶飯事」であろう。          恥ずかしながら、私はかつての「職場」を思い出す。「今日はよく登校して下さいました。これからは、あなた一人のために授業を行います」と言ったことがあっただろうか。

私が初めて「大衆演劇」を観たのは、昭和四十六年(一九七一年)八月、今から三十六年前の夏であった。場所は東京・足立区千住の「寿劇場」、出演者は「若葉しげる劇団」だったと記憶している。入場料は百円程度、観客は土地の老人がほとんどで、人数も十数人、思い思いの場所に座布団を敷き、中には寝ながら観ている人もいた。芝居の最中に、役者が舞台から降りてきて、団扇をぱたぱたさせながら「暑いですねえ、お客さん」と話しかけてくる場面もあった。それまで、大劇場の歌舞伎、新国劇、新派、新劇などは観たことがあったが、こんなにひっそりと「わびしい」雰囲気の中で演じられる芝居を観たことは初めてであった。しかし、その「わびしさ」に何ともいえない魅力を感じ、以来、断続的ではあるが「大衆演劇」に親しんできた次第である。
今、劇場は「常打ち小屋」約三十、温泉旅館・スーパー銭湯、レジャー施設などに併設される「舞台」を加えると、北は青森、南は熊本まで全国各地・約百二十箇所に点在している。そこを約百三十余りの「劇団」が旅公演して回っているのが現状だが、往時の「わびしさ」は、今も健在である。ほとんどの劇場が、観客数・百名未満であり、平均すると四十名前後というところであろうか。極端な場合には、劇団員の総勢の方が観客数よりも多いことだってある。私が見聞した最少観客数は八名だった。
しかし、実力のある「劇団」は、決して手を抜かない。客の数が少なければ少ないほど、その日の舞台を大切にするのである。外題に冠する「人情劇」の人情とは、ただ単に「演技」として見せればよいというものではなく、役者と客、客と客の間に広く、深く染みわたる心情として、相互の理解・連帯をたしかなものにできてこそ意味がある。競争社会の中で、汚れ、傷つき、乾ききってしまった、私たちの心中に潤いを与え、「愛」を取り戻すアイテムであること彼らは知っている
今日もまた、大衆演劇の「大衆」(私)は、一見「わびしく」劇場に通うのである。
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梅沢富美男 夢芝居(KING1600シリーズ第2期)梅沢富美男 夢芝居(KING1600シリーズ第2期)
(2010/07/10)
梅沢富美男

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「鹿島順一劇団」・三代目虎順の《役者魂》

2008年2月11日(月)晴
 午後1時から、川越・三光ホテル「小江戸座」で大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)今月3回目。祝日とあって観客は「大入り」。芝居は「紺屋高尾」、配役は、座長・紺屋(久助)、虎順・高尾、二人とも発熱(感冒)を押しての熱演だったが、やはり16歳の若手に「遊女」役は荷が重い。「汚れ役」(鼻欠けお角)で登場した蛇々丸が舞台を盛り上げた。客から「蛇々丸の女形を観たい」という所望が多いので、今日はそのリクエストに応えたという。しかも、それが何と泥・垢にまみれた「夜鷹」役とあって、客は見事な肩すかしを食らった。そうした演出が実に「粋」である。この「汚れ役」は、通常、「鼻に抜けた」口跡で演じるが、「表情」(化粧)「所作」だけで「鼻欠け」役を演じた蛇々丸の「実力」は半端ではない。また劇団の高い品格を(弱者の言動を徒に弄ばない)感じる。座長の歌謡ショーは、虎順の舞踊をバックに「鯱」、そして私が心待ちにしていた「無法松の一生」(度胸千両入り)だった。音が切れたマイクの故障にも動ぜず、最後まで情感たっぷりに歌い通した腕前はさすがであった。ラストショー、「旛随院長兵衛」役の虎順は孤軍奮闘の熱演、それを最後に、夜の部は欠場となった。本人はラーメンを食べ、「夜も出る」と頑張ったが、高熱には勝てず、服薬して静養中とのこと、倒れるまで全力を出し切った「役者魂」に拍手を贈りたい。夜の部の芝居は「仇討ち前夜・小金井堤」、座長を筆頭に、座員一同、「きちんと、いい仕事している」が、いつもとはどこか雰囲気が違う。役者も客も何か物足りない。虎順の抜けた穴がポッカリと空いてしまうのだ。日頃の「全力投球」の姿が見られない「寂しさ」がつきまとう。まだ芸未熟とはいえ、まさに誠心誠意、全力を尽くして舞台を務める彼の存在が、いかに劇団員・観客の覇気(モラール)を高めているか、その舞台を、活気のみなぎった、魅力的なものにしているか、を思い知らされる一幕ではあった。大衆演劇という劇団のチームワークが、役者同士の強い絆によって作られていることを、あらためて思い知らされた次第である。三代目虎順の、一日も早い回復を祈りつつ、帰路についた。
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テレビ「NHKスペシャル・闘うリハビリ」

2008年2月10日(日)晴

 午後9時からテレビ「NHKスペシャル・闘うリハビリ」を観た。脳出血で右脳のほとんどを摘出した16歳の青年(男子)が、2年間のリハビリによって自力歩行できるまでに回復した事例に興味をもった。リハビリの要点は、まずマヒした身体部位を「強制的に動かすこと」「刺激を加えること」によって、筋肉→神経→脳の「回路」(バイパス)を作り、働いていない脳細胞の「活性化」を図ることらしい。従来のリハビリは、残された機能(残存能力)を活用して「日常生活動作」をスムーズにできるようにすることを重点としていたが、その発想を逆転することが「闘う」ことに他ならない。失われた機能の代替手段を身につけるだけでは、リハビリにはならない。その機能自体の回復を図ることこそがリハビリなのだ。採りあげられた事例は「運動障害」(脳疾患による肢体不自由)に限られていたが、そのこと(考え方・仮説・治療方針)は他の障害(「視覚障害」「聴覚障害」「言語障害」「知的障害」「情緒障害」「精神障害」等)にもあてはまることだろうか。例えば「聴覚障害」、失われた聴覚を回復することは困難であり、その代替手段として「指文字」「手話」「口話」(読唇)「筆談」などの活用を図ることが、リハビリの「常識」(主流)となってはいないか(「補聴器」の装用訓練が軽視されていないか)。さらに、「知的障害」、知能の発達には限界があるので、「生活習慣」や「作業能力」など、具体的な能力を「身につけさせよう」とする教育方針が常道になっていないか(知能開発訓練が軽視されていないか)。それらの「常識」や「教育方針」が、「障害」の軽減を果たしている限り、問題はない。だが、ややもすれば、「障害の固定化」につながるおそれはないか。大切なことは、「障害」を「直視」し、その軽減・回復・克服を図ることだと思う。「あきらめてはいけない」「障害はつねに『流動的』である」ことを、あらためて銘記することができた。
 ちなみに、右利きの私は、左手が不自由である。その左手で「箸を持ち」「字を書き」「紙を折る」練習を始めてみようか。「闘うリハビリ」の仮説によれば、私の右脳は活性化し「老化防止」につながることは間違いないはずである。
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NHKスペシャル 脳がよみがえる 脳卒中・リハビリ革命NHKスペシャル 脳がよみがえる 脳卒中・リハビリ革命
(2011/09/04)
市川 衛

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「書く」という私の煩悩

2008年2月9日(土)晴のち曇のち雨
 
ここに1冊の本があるとする。1冊の本があるということは、一人の人間(著者)が居る(文は人なり)ということだ。なぜなら、その本を読むことによって、私はその人間と「対話」(コミュニケーション)ができるからだ。こちらからの問いかけに、「直接」答えることは無理だが、文字を通して著者の考えや気持ちを「聞く」ことができる。これまで私は、かなりの著者と「対話」を重ねてきたが、どうしてもその「対話」が続けられなくことがある。つまり、その著書を最後まで読み通すことができなくなる場合があるのだ。タイトルを見て期待していた内容が、いつまでたっても表れてこないとき、私の関心は加速度的に弱まり、その本を投げ出してしまう。最近では「競馬の人類学」(長島信弘・岩波新書・1987年)。私は、人類学的視点から競馬をどのように考察するか興味があったが、その内容は、世界の競馬の現況、競馬の歴史、日本競馬界の現状と課題を述べるだけで、どこが人類学的なのか、さっぱりわからなかった。しかし、それは著者の責任ではない。読書は、著者との「対話」である以上、その人の考えや気持ちを最後まで「聞こうとしない」私の方に責任があることはたしかである。要するに「相性が悪い」ということだろう。
 ところで、ではいったい、私の「雑文」を、何人の人が最後まで読み通してくれるだろうか。「第二の人生」が「無名・無償の文筆活動をすること」などと、勝手に決めてみたところで、いったい誰が最後まで「つきあって」くれるというのだろうか。昨年観たテレビで(タイトルは忘れた)、東京芸大の卒業制作に関するドキュメントを思い出した。黒田清輝の提唱により、東京芸大の学生は卒業時「自画像」を提出することが義務づけられているという。ある「自画像」を紹介しながら、その作者(女子学生だった)を追跡すると、彼女は今、シャンソン歌手(?)として働いていた。「もう絵は描かれないのですか?」というインタビューに、「私の絵はゴミにすぎません。歌なら形に残らないので、迷惑にはならないでしょう。そう思って私は絵を描くことを止めました」と答えた。至言だと思う。私もまた、自己の文筆活動がゴミの山を積み上げることを知っている。にもかかわらず、断筆できないのはなぜだろうか。「自己顕示欲」「煩悩」の結果であることは間違いない。国宝、重要文化財と呼ばれる「美術品」の中には「作者不詳」(無名)の作物も多いと聞く。「文学作品」の場合はどうか。「詠み人知らず」というだけで、その価値を低くみられることはないか。大切なことは、「誰が書いたか」ではなく、「どんなことを書いたか」だと、私は思う。しかし、どんなにすぐれた「美術品」「文学作品」を産出したとしても、それを作者(著作権)と切り離し、「私たち(人類)の誇り」と感じる人間は皆無と思われる。では、その先駆者になってみようか、とバカなことを考える。これもまた「煩悩」の結果に他ならない。
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考えない練習考えない練習
(2010/02/09)
小池 龍之介

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「鹿島順一劇団」、川越・ホテル三光・小江戸座公演と「幕間閑話」

2008年2月8日(金) 晴
 午後1時から、川越・湯遊ランドホテル三光で大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)、芝居の外題は、昼が「月の浜町河岸」、夜は「長ドス仁義」、いずれも大衆演劇の定番だが、この劇団が演じると、大衆演劇のレベルを遙かに超えてしまう。一般に「時代人情劇」などと呼ばれる芝居だが、まさにその「人情」が、役者の内面から「じわじわと」「滲み出てくる」ところに特長がある。それぞれの役者の個性が、「役どころ」(登場人物の性格)にぴったりはまり、舞台の随所随所で「蛍火」のように光り輝いている。夜の部の開演前、特別席の男性客(70歳代)三人が話している。「今日は、大入りはむずかしいね」「ウン」「大入りでないと役者さんもはりきらないだろう」「この前の劇団は32回も大入りを出したぜ」「なんせ、川越の客は目が肥えているから、半端な劇団じゃ無理だろう」「同じ芝居を2回は観ないもんなあ・・・」私は、この三人がどの程度「目が肥えているのか」興味津々であった。「長ドス仁義」の幕が開き、春日舞子、春大吉、登場、さらに、花道あきら、座長が登場して、三人の視線は舞台に釘付けになる。舞台は二景、蛇々丸、虎順、梅乃枝健、金太郎、赤胴誠(新人)も登場し、花道あきらとの「絡み」から目が離せない。いよいよ三景、蛇々丸と舞子の「絡み」、あきらの「愁嘆場」に涙する。そして終幕、見事、かわいい子分の仇を討ち終えた座長の「艶姿」に拍手の手を止めない。明るくなった客席で、一言、「よかったね」「ウン、うまい!」後は言葉がつながらなかった。「劇団」の実力は「集客能力」に比例しない。「いいものはいい」のである。
 私は、他の劇団が演じる、同じ外題(内容)の芝居を何度も観ている。しかし、どこかが違う。何かが違う。それは、「型に秘められた心情表現の鮮やかさ」とでも言えようか。「型どおり」の演技の中に、それを演じている役者の「個性」が見え隠れしているところが「違う」のだと思う。この劇団の役者は(新人も含めて)、自分の「個性」(長所・短所)を知っている。「分をわきまえた」演技、「相手の個性を生かそうとする」演技に徹しようとしている。それが、「のびのびとした」「個性的で」「自信に満ちた」芸風を培っているのではないか。「人情劇」といえば、藤山寛美、美里英二、大川龍昇など「型」を全面に押し出す演技が定法だが、それを「自然体」で超えようとしているところに「鹿島順一劇団」の素晴らしさがあるのだ、と私は思う。
 舞踊ショー、鹿島順一の至芸・「桂春団治」を観られたことは幸運であった。
<幕間閑話・1>
 海坊主のような風采の男性客(70歳)が、血相を変えて、桟敷席の従業員に問いかけて来た。「財布、落ちていなかったか!?」、従業員、あわてて「どこに、お座りでしたか?」男性客「そこだよ、そこ、そこ!」従業員、辺りの座布団をはねのけ、必死に探したが見つからない。「ありませんねえ・・・。他の者に聞いてみますから、少しお待ち下さい」男性客、しばらくその場に立ちつくしていたが、顔面蒼白、身体が小刻みに震わせて、どこかへ行ってしまった。見かねた周囲の客が、別の従業員に助言する。「早く、フロントに連絡した方がいいよ」「はい、今、行ったと思います」「バカ、あんたが行くんだよ!客の財布が無くなったんだ。責任があるとは思わんのか?」重苦しい雰囲気の中、「ここで無くなったんだから、みんなの持ち物を調べればいい」などという声も聞かれる。私も一瞬、不安になりロッカー室まで自分の持ち物を調べに行った。なるほど、「貴重品は必ずフロントにお預け下さい」という張紙がしてある。フロントに預けない限り、泣き寝入りする他はないということか。妙に納得した私は、自分の財布をたしかめ、再び桟敷席に戻ろうとすると、入り口で件の男性(海坊主)が、しきりに自分の外套(皮ジャン)を調べている。それを手に持って二、三度振ったとき、ポトリと黒い物が落ちた。「あった!あった!あった!・・・。やあ、皆さんすまねえ!あったよ、あった。あーあ、助かったあ・・・」その場の一同、「ああ、よかったねえ・・・。あったの?」これにて、一件落着。昼の部終演後、ほとんど客の居なくなった桟敷席で、件の男性(海坊主)、気持ちよさそうにカラオケ二曲披露して帰って行った。
<幕間閑話・2>
 夜の部開演10分前、私はロビーの椅子に座ってテレビを観ていた。そこへ、一人の老女がやって来た。「あのね。タイショウは何年?」私「・・・?、タイショウ?」老女「そう、タイショウ。タイショウは何年までだっけ?」私「ああ大正ね。大正は15年までです」老女「ふうん、あそうか15年までね。あたしは8年生まれなんだけど、今年であたしはいくつになんの?」とまどう私「え?・・・ちょっと待ってくださいよ。今計算しますから。えーと、大正15年が昭和元年だから、昭和元年は7歳・・・昭和は64年で70歳、平成は20年だから・・・ざっと90歳かな?、たぶん、はっきりしないけど90歳前後だと思いますよ」老女「え?何?」しどろもどろの私「だいたい90くらいだと思います」老女「何?、90・・・?」私「ええ、まあ、だいたい90じゃあないですか?」老女、一瞬びっくり、そして顔をほころばせながら「そーう、90なの?、そうか、90か・・・」感心したようにつぶやく。「あたし、もう90なんだ。はじめてわかったよ。ずいぶん永く生きたもんだ。この年になると数えることもできないや・・・。もうダメだね。じゃあ、もういつ逝ってもいいてことだ・・・」何かをやり終えたという満足げな表情、どこか浮き浮きとして、また何か話しかけようとした。そこへ、孫娘とおぼしき女性客「おばあちゃん、何話してるの?」老女、うるさいやつが来たという風情で、いたずらっぽく私に、めくばせする。孫娘「誰にでも話しかけるんだから、御迷惑よ・・・」そして、私に「どうも、すみません」と会釈した。恐縮する私「いえ、どういたしまして・・・」孫娘にコートを着せられ、もとの表情に戻った老女は、何事もなかったように帰路についていた。
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市丸のすべて市丸のすべて
(2005/04/21)
市丸

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「司京太郎劇団」と「朝寝の荷風」

2008年2月7日(木)晴
 午後6時30分から柏健康センターみのりの湯で大衆演劇観劇。「司京太郎劇団」2回目。1回目と比べて大きな変化はなかった。芝居の外題は「やくざの恋」、座長が「三枚目」の敵役・親分、藤乃かなが「三枚目」の敵役・子分でともに「いい味」を出していたが、「二枚目」役、「娘」役が力不足で「色香」が感じられない。前回に比べて「力が抜けている」(顔見せショーはなく二部構成だった)点はよかったが、やはり「何か一つ」物足りない。座長の「口上」(塩サウナの客から座長とも知らずに話しかけられ、今度の劇団の座長は50歳(実は41歳)だと間違えられたことに、大きなショックを受け、今落ち込んでいるという話、座長と藤乃かなは兄妹で、もう一人の妹は「劇団長谷川」の座長・愛京花であること、座長は4月から都京太郎を襲名すること、先ほどの芝居では両足がつって「ほんまに痛かった」ことなど)が面白かった。
 「朝寝の荷風」(持田叙子・人文書院・2005年)を、途中まで読む。荷風は和食を好まない。御飯、味噌汁は「家事労働」に専念させられた日本女性の労苦の産物であり、家父長制のはびこる「日本の家」の中で、不当に虐げられた母の「悲哀」を思うと、その憤りが昂じて、吐き気すら催すということである。その嗜好は徹底的で、正月・元旦といえどもパンとコーヒー、レストランの洋食で過ごす。「お節料理」など全く口にしたことがないという。単なる「外国かぶれ」ではなく、母への思慕が「和食」を遠ざける要因だったことが興味深い。荷風の愛読者は圧倒的に男性だが、著者をはじめ、林芙美子、森茉莉など女性にもかなりいる。しかしその作物に求める内容は異なっており、男性が専ら「女性の風俗」「姿態」「色香」であるのに反して、女性は「西洋の風俗」「生活空間」に憧れるという指摘が面白かった。いずれにせよ、荷風の作物は「風俗小説」であることに変わりないが、一般の「大衆小説」とは区別されているところに特徴がある。それはなぜだろうか。私自身、彼の作物を「徹底的に」読み込まなければ明らかにできない問題であるが、読者は荷風自身の「実生活」と「作物」を重ね合わせて「鑑賞」しているような気がする。「作物」以上に「実生活」を面白がる傾向(私もその一人)はないだろうか。
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朝寝の荷風朝寝の荷風
(2005/05)
持田 叙子

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「劇団美山」・佐倉湯ぱらだいす

2008年2月6日(水)雪
 午後5時30分から佐倉湯ぱらだいすで大衆演劇観劇。
 「劇団美山」(座長・里美たかし)。「劇団紹介」によれば、「プロフィル:平成9(1997)年1月、ユーユー・カイカン(三重県)にて、当時11歳だった里美たかし座長が旗揚げ。若き座長・座員たちを、映画や故・藤山寛美のもとで修行を積んだ太夫元・美山昇二郎と責任者・中村喜代子(座長の父母)が厳しくも温かい目で指導、着実に実力が備わってきている。劇団のモットーは「義理人情の熱いお芝居」。「座長 里美たかし:昭和60(1985)年12月4日生まれ。福岡県出身。血液型O型。美山昇二郎太夫元の長男。子役の経験を経て、弱冠11歳で当時の最年少座長となる。可憐な花のような女形に人気が集まっているが、厳しい父(美山昇二郎太夫元)の指導のもとで日々鍛えられ、芝居の実力も向上の一途を辿っている」とある。キャッツフレーズは「キュートな瞳で魅了する!小首をかしげてニッコリ微笑むと、可憐な花が咲いたよう。美しく優しい笑顔に癒されます」とあった。芝居開演前の配役紹介が丁寧だったので、里美こうた、里美京馬、中村喜代子、中村みか、中村えくぼ、中村はな、里美てるひこ、里美ゆうき、という芸名をメモすることができた。芝居が始まっても、顔と芸名が一致しなかったが、舞踊ショーが終わるまでには、すべての役者を芸名で見分けることができるようになった。全体を通して、現状では芝居よりも舞踊の実力が優っているように感じた。特に、座長の女形は「水準以上」で、キャッチフレーズどおり「可憐な花」のような雰囲気を漂わせる。表情(目線)も「さりげなく」「あっさりとして」「さわやかな」印象である。「江戸の女」「明治の女」「昭和の女」「現代の女」を演じ分けられるようになれば、斯界の第一人者となる日も遠くないだろう。他に、中村えくぼ、里美こうたの舞踊が光っていた。「関東春雨傘」を、「傘なし」で踊った里美こうたの「実力」はさすが、今後、「日和下駄」「車屋さん」系統の「粋な風情」を追求してもらいたい。舞踊に比べて芝居の方で「いい味」をだしていたのは、里美てるひこ(用心棒の侍)と里美ゆうき(敵役の親分)であった。主役と絡みながら、ある時は「不器用に」、ある時は「滑稽に」、相手を引き立てる(目立たせる)演技が「自然体で」できていたように思う。中村えくぼと座長の「三枚目」は、高難度の演技力を要求される。まず第一に、「客」との呼吸(間)、次に、相手役との呼吸(ボケとつっこみ、場合によってはボケとボケ)をはかれるかどうか・・・。登場して客を見る、客が笑う、それを確認して「表情」の演技、客が笑う、それを確認して「所作」の演技、客が笑う、以後は相手との絡みに専念し、客の笑いを「背中で感じる」ようになれば、「芝居の実力も向上の一途を」辿るに違いない。外題「夢介十年後の仇討ち」の眼目は、「バカな夢介」から「バカなふりをしている夢介」、「実は筋金入りの男・夢介」へと「変化」(へんげ)していく過程を楽しむところにある。そのためには、夢介は本当にバカなのか、そうではないのかが、三枚目・チョロ松との絡み、敵役の親分、用心棒とのやりとりを重ねるうちに、次第次第と「浮き彫り」されてこなければならない。大昔、新国劇「国定忠治・山形屋の場」で、「百姓のふりをする忠治」を辰巳柳太郎が演じていたが、それと同程度(高難度)の演技力が要求されるのである。という点では、まだ課題が残る舞台ではあった。とはいえ、斯界の実力者を両親にもつ座長のこと、「つぼにはまれば」難なくクリアできるだろうと、私は確信する。
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日本の伝統芸能〈浪曲〉国定忠治~忠治・山形屋乗込み(上)(下)日本の伝統芸能〈浪曲〉国定忠治~忠治・山形屋乗込み(上)(下)
(1995/11/01)
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「永井荷風という生き方」(松本哉・集英社新書・2006年)

2008年2月5日(火)晴
 「永井荷風という生き方」(松本哉・集英社新書・2006年)読了。先月、私は「現代日本文学史」(第二章・高橋春雄・笠間書院・1988年)を読み、大逆事件が転機となって荷風の「江戸戯作者」風・耽美主義が形成されたように書いた(1月22日)が、この本の著者・松本哉によれば、それよりずっと以前から、荷風の「世捨人願望」はあったとのことである。<たとえば、数学が駄目で高等学校の入学試験には絶対受からないとあきらめていた荷風の少年時代(明治30年、満17歳の頃)、絶望のあげくにつかんだ希望の光が次のようなものだった。『小説家、音楽家、壮士役者、寄席芸人なぞ、正当なる社会の埒外に出て居る日陰者の寧ろ気楽な生活』(『紅茶の後』の「九月」)音楽家や寄席芸人を日陰者と呼んでは、今では叱られてしまうだろうが、ここで荷風は、高級官僚と比較して小説家以下それらのものを日陰者と呼び、そこに言い知れぬ居心地の良さを感じただけである。そして荷風がこの文章を発表したとき、日陰者どころか、大学教授であり、「三田文学」の主宰者として華々しく活躍していた。しかも徹底的に日陰に逃げ込もうとする態度を崩さず、逃してなるものかという熱心な追っかけ者(愛読者)をつかみ取っていったのである。有名な次のひと言など、たまらない名言だ。『もともと自分は自己を信ずる事のできぬ者である。自分は今までに一度びたりとも世間に対して厚かましく何事をも主張したり教えたりした事はない。自分は唯訴えたばかりだ。泣いたばかりだ』(『倦怠』明治43年5月、満30歳)>(192~3頁)
 心の中に「世捨人願望」をもち、表面的には「日陰者」(小説家・戯作者)を装いながら、実質的には「高級官僚」と大差ない「選良」(エリート・有産者・大学教授)の生活を送っていたではないか、という問題提起が感じられた。その指摘は当然といえば当然、だが、荷風に限ったことではないだろう。およそ「知識人」とは、そう呼ばれるだけですでに「日陰者」の条件を失ってしまうのだから。
 さて、私の関心は「永井荷風という死に方」の方である。<死ぬのを見ていた人もいないから、報道記事を読んでさまざまに想像するだけであるが、ときどき荷風の身になって死の瞬間を考えてみたりしないことはない。自分が今死ぬというときはどんな感じなのだろう。すべてが終ってしまうということが生きている人間には想像できないから始末が悪い。日記を見ると、亡くなる二カ月前に次のような記事がある。「〔昭和三十四年〕三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自働車を雇い乗りて家に帰る」それまでは毎日浅草へ行くのが日課だったが、この日を境に、電車に乗ってどこかへ行くことがなくなったのである。>(214~5頁)そして、4月30日、荷風は自宅で病死(孤独死)した。まさに二カ月間、彼は「入院治療を受けることなく」闘病したのである。その経過は「断腸亭日常」に詳しく記されていない。「死ぬ」とは、そういうことなのだということを、私は実感する。動けない、書けない、食べられない、その「積み重ね」が「死ぬ」ということではないだろうか。(荷風の場合、死の前日まで食べることはできたが・・・)いずれにせよ、人間は動物であり、他の動物が死ぬように死ぬことが肝要である。何もしないでじっと待つ。そうすれば、少なくとも二カ月で「死ねる」ということがわかった。「余命半年」などと診断されながら、その間、投薬、点滴、人工呼吸、心臓マッサージ等々、無用な延命治療に「専念」するケースが多いようだが、どんな意味があるのだろうか。大切なことは、残された「半年」をどう生きるか、ということだと思う。識者によれば、「人間は、その人が生きたように死んでいく」(生き様イコール死に様といえる)ものだそうである。銘記すべき名言だと、私は思う。
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永井荷風という生き方 (集英社新書)永井荷風という生き方 (集英社新書)
(2006/10/17)
松本 哉

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「司京太郎劇団」の《熱気》と《メリハリ》

2008年2月4日(月)晴(雪解け)
 
午後6時30分から、柏健康センターみのりの湯で大衆演劇観劇。「司京太郎劇団」(座長・司京太郎)「劇団紹介」によれば、<プロフィル:九州演劇協会所属。平成元(1989)年5月1日、九州・玄海パレス(現在は廃館)で旗揚げ。「忠臣蔵」や子役(愛娘・都こもも)を使った人情芝居を十八番としている。座長 司京太郎:昭和42(1967)年4月24日生まれ。山口県出身。血液型AB型。16歳の時に初舞台を踏む。平成元(1989)年に劇団を旗揚げ。立ち役では渋さを醸し出し、女形では優雅にしっとりと舞う。「お客様に、気持ちよく観ていただけるように」と、衣装やかつらの手入れをしっかりとし、美しく清潔感のある舞台を心がけている>。キャッチフレーズには「実力派劇団が舞台に華を咲かす!華麗なショーに、十八番の人情芝居。胸の中で熱く燃える、舞台への情熱すべてを日々発揮する」とある。
 まさにその通りで、センター公演では「芝居」「舞踊ショー」の二部構成が通常だが、この劇団は「顔見せショー」「芝居」「舞踊ショー」の三部構成、情熱すべてを日々発揮しようとする熱気が感じられる。「舞踊ショー」では、座長の女形一本、立ち役三本、観客は存分にその「実力」を堪能できた。芝居は、定番の「地蔵の卯の吉」、主役は人気女優・藤乃かなが、堂々と器用に「立ち役」をこなす。脇役陣も堅実で「実力派劇団」の看板に偽りはない。衣装、かつらも「美しく清潔感」に溢れている。すべてが「水準以上」なのだが、何かひとつ物足りない感じがする。観客を惹きつける「実力」は十分なのに、何か一つ物足りない。私の独断と偏見によれば、それは「緩急自在」の「メリハリ」とでも言えようか。「胸の中で熱く燃える、舞台への情熱」が「全力投球」(直球勝負)になりすぎるきらいはないか。どこかで「ふっと力を抜く」軽妙さを生み出せれば、魅力は倍増するだろう。「実力」をすべて出し切ろうとする「誠実さ」(一生懸命さ)を痛いほど感じるのだが、どこかで「芸惜しみ」をすることも必要なのではないだろうか。「芝居」も「舞踊」も実力十分、その実力を通して、何を訴えるか。「地蔵の卯の吉」の舞台を例にとれば、盲目の母が、卯の吉の死を察知する「一瞬」が見せ場の眼目、それを「いつ」「どこで」「だれが」「どのように」演じるか。その景色・風情を「舞台上の人物」すべての気配で表現できれば申し分ないのだが・・・。「舞踊」においても「歌は三分間のドラマ」、踊り手一人一人が主役の座を与えられる。歌詞に秘められた情景・心情を「もう一歩」自分のものにできれば、「実力派劇団」の実力はさらに確固としたものになるだろう。
 とはいえ、私の観劇はまだ2度目、認識不足の難はまぬがれられまい。
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「別府大分毎日マラソン」と「N響アワー」(シベリウス)

2008年2月3日(日)一日中・雪
 正午から、別府大分毎日マラソンのテレビ視聴(6チャンネル)。旭化成の足立知弥選手が、フルマラソン初出場で初優勝。タイムは2時間11分59秒。このコースは平坦だが海岸縁を走るので、風の影響は避けられない。そのため各選手は「向かい風」の対策を考えたトレーニングを積む。しかし、今日は、復路「追い風・5メートル」だった。その対策が不十分だったため、記録が思うように伸びなかったという。なんとも「わかったようでわからない」話だった。民放の番組なのでコマーシャルの挿入は避けられないとはいえ、まさに「こまぎれマラソン」、選手の転倒場面などは容赦なくカットされていた。昨今では「商品表示」の偽装が問題視されているが、「番組表示」の偽装は不問である。牛挽肉と明示しながら、そこに豚・鶏肉を混入した廉で業者が摘発された。では、マラソン中継と明示しながら、その映像の中に「保険」「金融」「建築」「工業製品」など無関係な映像を混入することは許されるのか。立派な「詐欺罪」ではないか、と私は思う。
 午後9時から、「N響アワー」視聴。内容はシベリウスの「交響曲第二番」で、指揮は巨匠・ヘルベルト・プロムシュテット、解説の池辺晋一郎は「素晴らしかった。プロムシュテットは、『音楽には音と色がある』と言ったがが、私は温度もあると思う。第一・二楽章は、冷たくて寒い、徐々に温度が上がり第四楽章になると最高温度に達する」と述べたが、私には「わかったようでわからない」話だった。もっとも、音楽は「感じる」ものだから「わかる」必要はないだろう。第一・二楽章は、音のリズムが、私にはほとんど感じられない。ただ楽器の音だけが響いている。第四楽章になって、はじめてリズム・メロディー、ハーモニーが「はっきり」感じられるようになってきた。交響曲は、音で描写、音で語り、音で歌う、という「部分構成」になっているのだろうか。素人の私にはまったくわからない。そういえばモーツアルトの作品では、はっきりと「音楽」(リズム・メロディー・ハーモニー)が聞こえる。「歌う」部分が多いのかも知れない。
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「劇団武る」(座長・三条すすむ)の「おさん徳兵衛」は出色!

2008年2月2日(土)晴のち小雨
 午後5時から、浅草木馬館で大衆演劇観劇。「劇団武る」(座長・三条すすむ)、座長を筆頭に、座員は指導・勝次郎、副座長・藤千乃丞、女優・月城小夜子(元・松竹新喜劇)といった「実力者」が舞台を引き締めている。芝居の外題は「おさん徳兵衛」、大衆演劇の定番、「実力者」たちで主役・脇役を固め、安心して観ることができた。特に、座長の「お菰」役は絶品で、「あわれさ」と「あかるさ」(滑稽)を両立させる「上品」な雰囲気が舞台に漂っていた。「舞踊ショー」も、座長の「命くれない」「ああ、いい女」、副座長・藤千乃丞の「ある女の詩」等、女形舞踊が素晴らしく、印象に残る舞台であった。それに比べて、やや「立ち役」(男踊り)が単調、「色香」に欠けるので、指導・ショウジロウの「奥飛騨慕情」(これは伝統的至芸といえる逸品であった)を目指して、さらなる精進を期待したい。思うに、座長・三条すすむの持ち味は、「女形」の方にあるのではないか。古くは辻野耕輔、若葉しげる、近くは市川千太郎の方向性と軌を一にしながら、「里見要次郎」風ではない女形、たとえば「藤純子」的な風情を極めれば、大成するだろう。
 舞台全体を通して、惜しむらくは、やはり「音響効果」である。舞踊音楽のボリュームが大きすぎる。現在の音量を100とすれば、70程度に絞るべきである。せっかくの舞台が、大きすぎる音響によって「台無し」になってしまうことが残念でたまらない。

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「鹿島順一劇団」の舞台は《日本一》

2008年2月1日(金)晴
 午後1時から、川越・三光ホテル(小江戸座)で、大衆演劇観劇。「鹿島順一劇団」(座長・鹿島順一)。芝居は「仇討ち絵巻・女装男子」と「月とすっぽん」、それに舞踊(歌謡)ショー、二ヶ月ぶりに見る舞台は依然として光彩を放っていた。客の話、「今度の劇団はいいよ」、「特に、女形で上手い役者がいたなあ」「早く役者の名前をおぼえなくちゃあ」、等を耳にしながら、「当然、当然、なにせ日本一の劇団なのだから・・・」と、私は納得していた。特に、「うるさくなくていいよ、他の劇団は音が大きすぎて頭が痛くなってしまう」という客の声は聞き逃せない。私は、これまで観た劇団の座長すべてに、音響効果に留意するよう、手紙を送ったが、その後、変化の見られた劇団は、「劇団花車」(座長・姫京乃助)、「恋川純弥劇団」(座長・恋川純弥)、「剣戟・はる駒座」(座長・津川竜)、「小林劇団」(座長・小林真)、そしてこの「鹿島順一劇団」くらいであろうか。 今日の芝居では、役者が装用するワイヤレスマイクのボリュームを絞れるだけ絞り、舞踊では、音楽のボリュームを「痛覚レベル」寸前で抑えている。この配慮こそ、何よりも大切な「演出」なのである。座長はじめ、花道あきら、蛇々丸、春大吉、三代目虎順、春日舞子、梅乃枝健といった面々の「実力」は相変わらずであったが、若手・金太郎の演技に「少しずつ」変化があらわれているように感じた。舞踊における「身体の線」が「絵になりつつ」ある。さらに「肩の線」「表情」が変化すると「見違えるように」なると思うのだが・・・。三代目虎順の「女装男子」、女形から「若様」(侍)への変身を、どのような間(呼吸)、表情、所作、声音で表現するか、関心を持って観ていたが、市川海老蔵(「十六夜清心」の清心役・「弱」から「強」、「善」から「悪」への変身)よりは「上」であった。前半の「女装」部分(「人形ぶり」のような型どおりの所作)は合格、それが「男子」になった後半が「今一歩」(「若様」としての風格がまだ感じられない)というところか。今後、「渡世人」「素浪人」「旗本」「役者」「百姓」など「立ち役」の使い分けができるように、父・鹿島順一の「至芸」を学びとってもらいたい。花道あきらの「女形舞踊」は、一段と磨きがかかり、まさに「油がのりきった」感がある。芝居でも「表情」による演技が冴え、舞台を引き締めていた。蛇々丸、春大吉も、脇役に徹した「控えめ」な演技がすがすがしく、素晴らしい(爽やかな)舞台であった。「芝居・月とすっぽん」の終幕、どうみてもすっぽんの座長(平太郎)と舞子(お鍋)が深手を負い、どうせ死ぬなら明るくと、「会津磐梯山」の音曲に乗せて踊る相舞踊(節劇)は秀逸、また、「歌謡ショー」で、座長(の歌唱「ああ、いい女」に合わせて踊る)舞子、御両人の舞台も絶品であった。一ヶ月公演という長丁場、それぞれの劇団員が「適材適所」で十二分に「実力」を発揮することを期待する。この劇団がさらにその実力を高め、「日本一」の座をいっそう確実にするための課題は何か。それは「真剣勝負」の一語に尽きると私は思う。文字通り、小道具として使われる大刀、小刀、匕首など、「刃物」が「真剣」(本身)であるように「見せる」ことができるかどうか。それは、刀身が鞘から抜かれるときの「一瞬」で決まる。その光、重さ、冷たさ、鋭さが「真剣」だと錯覚させる「もどき」の世界を追求・実現できたとき、劇団の実力は確固としたものになるだろう。「刃物」は、大衆演劇の小道具に不可欠だが、それが「真剣」だと見間違えるような舞台はまだ観たことがない。唯一、大歌舞伎、新国劇 との「格差」であろうか。小道具に使える値段の多寡(劇団の経済力)は言うまい。「芸の力」でその格差を逆転することこそが、大衆演劇の面目(真骨頂)に他ならないからである。そんなことを思いつつ帰路についた。
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冥界譚

2008年1月31日(木)晴
 今日で1月は終わる。「死にどころ」を求めての「冬蜂紀行」は、始まったような、まだ始まらないような、なんとも覚束ない足どりである。「死にどころ」とは、「死ぬ場所」に加えて「死に方」「死ぬ時期」も含まれているような気がするが、いずれも、今の私には定かではない。そういえば、私はこれまでに4回「死にかけた」ことがある。1回は、おそらく2歳頃・・・、その経緯は全く記憶がない。2回は5歳、父親が買ってきた、「季節外れの柏餅」を夜中に食べ、激しい食中毒におそわれた。しかし、苦痛の記憶はあまりない。翌日、いつものように遊んでいたが、妙に頭が締め付けられるような感じがする。当時、進駐軍の兵士がかぶっていた帽子(GI帽)を、自分もかぶっているような感じがして、それを楽しむような余裕があった。まだ「頭痛」という感覚を体験したことがなかったためだろう。まもなく、力が抜け、意識が混濁しはじめた。「象牙の牙が生えてます・・・」などと歌ともうわごとともわからぬことを口走ると、叔母の声が聞こえた。「いけない、脳にいっちゃった、もうだめかもしれない」。私はぼんやりと考える。「脳にいく」とは何だろう。祖母の好きな歌「富士の白雪ゃノーエ・・・」と関係があるのだろうか。「三島女郎衆は、ノーエ・・・」か、女郎衆とは何だろう。そこへ往診の医者が駆けつけてきた。とりあえず「リンゲルを打つ」という。周囲の一同は覚悟したように、私の両手、両足を押さえつけた。そのとき、初めて私は「恐ろしい」と思った。症状の苦しさではなく、拘束されることの恐怖感の方が大きかったと思う。必死にもがこうとする私の太ももに、容赦なくリンゲル注射は打たれた。痛かった。殺されると思った。幸か不幸(といえば罰が当たるかも知れない)か、病状は快方に向かい半月程度の療養で、私は全快した。その間、ブドウ糖、重湯、葛湯、リンゴ汁、すり下ろしたリンゴ、粥、おじやという順に「栄養補給」が行われた。それは、死から生への道筋を象徴しているようで、そのどれかを食べたとき、当時を思い出す。リンゲル、ブドウ糖注射の痕跡は今でも、私の腿や腕に残っている。3回は6歳の夏、場所は神奈川・逗子海岸、父親、親類と海水浴を楽しんでいた時のことである。突然、3メートルくらいの大波が打ち寄せてきて、おそらくその場の全員が「呑まれて」しまったのだろう。私は水中でもがいていた。何も見えない。息もできない。ただ、手足をばたつかせていたような気がする。「もうだめだ」と思った。数秒後、私の体は誰かに引っ張られ、気がつくと水中から脱出していた。親類の一人が、泳げない私を救出してくれたのである。まさに「九死に一生を得る」とはこのことだ、と実感した。しかし2回も、3回もまだ「深刻さ」が伴わない。もしあの時死んでいれば、「それはそれ、運が悪かった」とあきらめもつくのではないか。周囲の反応はともかく、当事者(本人・私)にとっての「死」とは、案外そのような感じのものではないだろうか。3回は17歳、病気でも事故でもない。ある夜、私は自殺を試みようとしたのである。しかし、「あと1分後にしよう・・・」「もう1分延ばそう」と思いながら一夜は明けてしまった。そのまま、実にその状態のまま、46年間が経過し、現在に至っているという次第である。なんとも「情けない」「だらしない」話ではないか。そんな気持ちを土台に私は、拙い小説を書き始めた。以下はその冒頭の二章である。

冥界譚

家に帰ろうとして、四つ角にある葬儀会館の立て看板を、何気なく見た。「故 梨野 礫儀 通夜告別式 式場」と書いてある。
「何だ、これは!、梨野 礫とはオレのことじゃないか!?」
私は、驚いた。自分は、死んだことになっている。しかし、まるで、そのような気がしない。同姓同名の故人が本当にいたのだろうか。
とりあえず、私は家に帰ることにした。
「だが、待てよ。」何か、気分がおかしい。妙に、さわやかなのである。いつもの、耳鳴りや頭痛、肩凝り,動悸、手足のしびれ感などの「不快感」がほとんど感じられないのだ。そればかりではない。無性にタバコを吸いたくなる、あの禁断症状も見事に消失しているではないか。
私の心臓は動いているのだろうか。私は,本当に呼吸をしているのだろうか。
「そうか!、私の心臓は止まっている。呼吸もしていない!?」、だとすれば、私はもう死んでいることになる。昔、ある哲学者が言っていた。「人間は、生きるという行為を『現在進行形』で続けることはできるが、死ぬという行為を続けることはできない。心臓が止まる瞬間を,一回限りで『死ぬ』というのであり、以後は『死んだ』という過去形の表現になってしまう。つまり、『死ぬ』ことは生きることの最後の営みであり、『死』イコール『生』という公式が成立する。」と・・・。彼の論旨は、人間が生きるのは、つねに死を意識しているからであり、死を意識すればするほど充実した生を実現できる、ということであったように思う。
しかし、私の死は、一回限りでは終わらなかった。死んだ後も、私の意識は健在なのである。しかも、すこぶる気分がよい。実に爽快である。
私は、本当に死んだのだろうか。
それを確かめるために、とりあえず、家に帰ることにした。我が家のたたずまいは、いつもと変わりなかった。玄関の鍵はかかっていたが、開ける必要はなく自然に入ることができた。
居間では、妻がコンビニ弁当を食べながら,テレビを見ている。表情は、いつもと変わりなく、何事もなかったような風情であった。
私は「おい、今、帰ったぞ」と声をかけようとした。だが、声が出ない。呼吸をしていないので、当然のことだ。
「なるほど・・・。やっぱり、オレはもう死んでいるんだ」
私は、やっと納得することができた。
「しかし、待てよ・・・。」私が死んだというのに,我が家の様子がいつもと変わりがないということはどういうことなのだろうか。さきほど、見かけた葬儀会館の看板は何だったのだろうか。今、私の葬儀が行われているのではないのか。どうして、妻はテレビなど見ていることができるのだろうか。
私は、家を出て葬儀会館に行ってみることにした。
もう一度、入口に立てかけてある看板をゆっくりと見直してみた。「故 梨野礫儀通夜告別式 式場」、真っ白な布地に、筆太の楷書文字ではっきりと書かれている。
「間違いない!」、私は確信して中に入った。受付は閑散として誰もいなかった。奥の一室から読経の声が聞こえる。「もう始まっているのか」,そう思って式場に向かった。
なるほど、正面に棺が安置され、私の遺影も掲げられている。参列者は、整然と並べられたパイプ椅子にすわり、一様に頭を垂れていた。遺族席には、妻がいる。長男も、長女も、その配偶者、孫たちも並んで座っている。彼らの表情は、いつもと変わりなく、淡々としていた。
かねてから、私は「もしオレが死んだら『故人の遺志により葬儀一切はとりおこないません』と通知して、事務的な始末だけするように」と言い置いてあったのだが、事態はそのようにはならなかったようである。でも、それでは、さきほど自宅で見かけた妻の様子は何だったのだろうか。明らかに、二人の妻がいる。再び確かめるために、自宅に戻ってもよかったが、その結果はわかるような気がした。
「もう、どうでもいいや・・・。」という気持ちになって,私は、しばらく葬儀の経緯を見ることにした。
参列者の中に、知人は一人もいなかった。「なるほど、妻は私の遺言どおりに、誰にも訃報の通知を出さなかったのだ。それでよい!」と、私は思った。だとすれば、この葬儀は、事務的な始末の一部に他ならない。家族が淡々としている様子も、十分に納得できた。 「そうか!」と、私には歓喜にも似た気持ちがあふれ出てきた。「オレは、やっと本当に死ぬことができたのだ!」
私が初めて死にたいと思ったのは、十七歳の時だった。以来四十年あまり,一日として「死にたい」と思わない日はなかった。時には「仕事」に紛れて「死んでたまるか」と思うこともあったが、入眠の時には「このまま、目が覚めないように」と、祈り続けてきたのである。
今,突然,その祈りが叶えられたと思うと、私は○○のように踊り出したい気持ちになった。「やったぜ、ベイビー(古い言葉だなぁ・・・。でも万歳よりはいいだろう)」と大声で叫びたくなった。しかし、私は、体を動かすことも、声を出すこともできなかった。「死ぬ」ということは、そういうことなのである。
ところで、私はなぜ、この四十年余り「死にたい」と思い続けてきたのだろうか。話せば長くなるので、ここで一息いれてもらいたい。


私は、昭和十九年十月に満州(中国東北地方)で生まれた。日本の敗色が濃くなった戦時下のことで、聞くところによれば、あの神風特攻隊が自爆攻撃を開始した頃だという。当時の記憶は全くないので、すべて後日、縁者からの「またぎき」の話だ。だから、どこまでが本当かはわからない。
母は、第一子の私を出産すると、まもなく病死した。三十九歳での初産がたたったのかもしれない。父も、まもなく入隊し、私は父の友人一家に預けられた。一家には、友人夫婦と三人の息子がいた。三男と私は同年齢だったそうである。
敗戦後、友人一家は、私を連れて「内地」に引き揚げる。その途中で、三男は病死した。
友人一家の悲嘆、苦労はいかばかりであったろうか。その温情は筆舌につくしがたく、感謝の言葉も見あたらない。
とはいえ、私が物心ついたころ、「すべては終わっていた」。
私は母方の祖母に預けられ、新生「日本」の息吹の中で、安穏な日々を過ごすことになった。やがて父も生還し、友人夫婦、息子たちと交流、歓談する機会もあった。そこで語られる大人同士の「思い出話」には、かけがえのない「真実」、そしてまた、消すことのできない「悔恨」が数多く秘められていたに違いない。しかし、子どもだった私には、それらの片鱗さえ感じとることができなかった。今の私には、父の友人夫婦がさびしげに歌っていた「白頭山節」「鴨緑江節」のメロディーがかすかに残っているだけである。
「いや、待てよ。」、覚えている言葉が一つだけあった。『ムガイシャ(無蓋車)』である。屋根のない貨物列車のことであろう。台車の側板があるのはいい方で、ほとんどが木材を運ぶ,棒杭だけが立てられた無蓋車だった。その杭にしがみついてきたからこそ、引き揚げることができたのだという。
当時の大人たちは、過去の事実を「淡々と」叙述するだけで、感情を表に出すことはなかったように感じる。そのためか、私は自分自身の「生死」にかかわることですら、他人事のように聞き流していたと思う。
友人夫婦が私を連れて「内地」に帰還したとき、母方の縁者が出迎えた。栄養失調でやせ細った私の姿を見て、「期待はずれだったっけやあぁー」というのが第一印象だったという。未熟な私には、「期待はずれ」という意味すら理解することができないでいた。
友人夫婦のかけがえのない三男が落命したことの「重大さ」、「無念さ」を思い知ることができたのも、つい最近のことである。
「友人夫婦は、三男を犠牲にして私を守り抜いたのではないか。」
自らの第三子と、他人の第一子、どちらか一人を選ばなければならなくなったとき、どうするか、夫婦の苦渋の選択は想像するに余りある。
「でも、これでよかったのだ・・・」、妻を亡くし、息子も預けて入隊しなければならなかった父、娘の生還を待ちわびている母の縁者たちのこと、そして梨野家の存続を考えれば・・・。夫婦はそう自分に言い聞かせて、三男の冥福を祈ったに違いない。
だとすれば、「お前は生きなければならない、期待はずれでも・・・。」と、人は言うだろう。
わかるだろうか。だから、私は「死にたい」のである。「甘ったれ」「意気地なし」は百も承知で「死にたい」のである。十七歳、思春期特有の「反抗」「憂鬱」「絶望」「倦怠」を今だに引きずっている馬鹿、それが私の姿なのだ。(つづく)
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摘録 断腸亭日乗〈上〉 (岩波文庫)摘録 断腸亭日乗〈上〉 (岩波文庫)
(1987/07/16)
永井 荷風

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「日本の名随筆・演歌」

2008年1月30日(水)晴
 「日本の名随筆・演歌」(天沢退二郎編・作品社・1997年)読了。宮沢賢治の「歌妓」、萩原朔太郎の「流行歌曲について」を筆頭に、以下、竹中労、池田弥三郎、見田宗介、五木寛之、小泉文夫、新藤謙、井上ひさし、清水邦夫、寺山修司、筒井康隆、富岡多恵子、鶴見俊輔、大岡昇平、村松友視、中上健次、浅川マキ、竹西寛子、天沢退二郎、色川武大、諸井薫、橋本治、中野翠、久世光彦、山折哲雄、四方田犬彦といった面々の「名随筆」が編まれている。著者は、詩人、小説家、評論家、哲学者、演出家、学者など様々な分野の「著名人」であり、ひとり浅川マキだけが歌手として参加している。浅学のため未知の著者も多かったが、作物全体を通して、いくつかの「共通点」が感じられた。「演歌」(流行歌・歌謡曲)がテーマであるにもかかわらず、それと正面から向かい合う姿勢で綴られたものは少ない。編者自身、「あとがき」で「『演歌』は、(略)感情的真実へのあまりといえばあんまりな密着性によって、しばしば低俗と見なされ、知識人や高級音楽愛好者が眉をひそめて軽侮の色をかくさないのは、それなりに故なしとしないのであろう」と述べているように、知識人である著者の面々には、「その低俗とは距離をおきたい」「単なる演歌愛好者だと思われたくない」といった無意識がはたらいているのだろうか。(低俗な)「演歌」とは別の(高級な)「知識」を引き合いに出しながら(ひけらかしながら)、それを強引に(無理矢理)「演歌」に結びつけようとする傾向が感じられた。歌手・浅川マキの作物以外、ただ一編を除いては・・・。その一編とは、詩人・萩原朔太郎の「流行歌曲について」である。冒頭部には「現代の日本に於ける、唯一の民衆芸術は何かと聞かれたら、僕は即座に町の小唄と答えるだろう。現代の日本は、実に『詩』を失っている時代である。そして此所に詩というのは、魂の渇きに水をあたえ、生活の枯燥を救ってくれる文学芸術を言うのである。然るに今の日本には、そうした芸術というものが全くないのだ。文壇の文学である詩や小説は、民衆の現実生活から遊離して、単なるインテリのデレッタンチズムになって居るし、政府の官営している学校音楽というものも、同じように民衆の生活感情と縁がないのだ。真に今日、日本の現実する社会相と接触し、民衆のリアルな喜怒哀楽を表現している芸術は、蓄音機のレコード等によって唄われている、町の流行歌以外にないのである。僕は町を歩く毎に、いつもこの町の音楽の前に聴き惚れて居る」と、書かれている。野口雨情は措くとして、佐藤惣之助、西條八十、サトウハチロー、藤浦洸といった作詞家は、もともと「詩人」を目指したが、こと志に反して「やむなく」流行歌の世界に身を置くはめになったのかも知れない。しかし、詩人・萩原朔太郎は、その作詞家の作品に「聴き惚れて居る」ことを白状している。そのことが、大変おもしろかった。
 以下は、昔、綴った私の「迷随筆」二編である。

「異国の丘」
 静岡市を流れる安倍川、その上に架かる安西橋の両側には、欄干がなかった。四~五メートルごとに石の柱は残っていたが、柱と柱をつなぐ「横棒」は鉄製のため、兵器工場に徴発されたのだろう。祖母は、病みあがりの私を乳母車に乗せて、その橋を注意深く渡り始めた。五歳の私が、生死をさまよった「疫痢」から辛うじて快復し、治療に使ったリンゲルの注射器を、河原に捨てに来た帰り道のことである。
真夏の炎天下、橋の上を通る人や車は、皆無だった。だが、ちょうど中間点に来たとき、向こうから、一人の少年が「跳んで」来るように見えた。少年の姿は、だんだん大きくなってくる。よく見ると、少年は「跳んで」いるのではなかった。松葉杖をついて、懸命に歩いていたのである。頭、顔、上半身、汗にまみれ、薄汚れた半ズボンの下には、膝から切断された右足がむきだしのまま、ぶら下がっていた。私たちは目を合わせることなくすれ違い、無言のまま帰宅した。床の間のある八畳間で、祖母は、何事もなかったようにラジオのスイッチを入れる。雑音に混じって途切れ途切れに聞こえてきたのは、「異国の丘」(増田幸治作詞・吉田正作曲・昭和二四年)のメロディーだった。「今日も暮れゆく異国の丘に 友よ辛かろ切なかろ 我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日も来る 春が来る」まだ五歳だった私に、歌詞の意味などわかるはずがない。ただ、愁いを帯び、どこか悔恨の気持ちを秘めた男の歌声だけが、私の胸裏に刻印されたことはたしかである。「イコクノオカって何?」と問いかける私に、祖母は弱々しく笑って、床の間の掛け軸を指差した。そこには、槍の先のように鋭くそびえ立つ絶壁(水墨山水画)が描かれていた。「ふうーん・・・」と言って見つめる私を祖母がどう感じたか。すでに、私の母は、昭和二十年、異国・満州で他界していたのである。
 掛け軸は人手にわたり、山水画を二度と見ることはできないが、「異国の丘」のメロディーに触れるたび、槍の先のように鋭くそびえ立つ絶壁の情景が目に浮かぶ。「異国の丘」は、敗戦で異国に抑留された兵士たちの「祖国帰還」をテーマにしているが、私には、竹山逸郎・中村耕造の歌声が、、散華した友への鎮魂、生還する自分自身への悔恨、懺悔を伝えようとしているように思われてならない。
 幼い日の真夏、はじめて耳にした大人の流行歌「異国の丘」が、実は、極寒の地における「春を待つ歌」であることは後年知ったことだが、還暦を過ぎた現在、あの松葉杖の少年、掛け軸の山水画、そして「戦争」のことが頭から離れないのである。                                                                               (2006.12.31)
二葉あき子の歌唱力
 二葉あき子の歌を聴いたことがあるだろうか。私が初めて彼女の歌を聴いたのは「夜のプラットホーム」(奥野椰子夫作詩・服部良一作曲・昭和21年)であった。昭和26年2月,当時6歳だった私は,父と祖母に連れられ,住み慣れた静岡から東京に向かうことになった。静岡には母の実家があった。満州で生まれた私は,すぐに母を亡くし,入隊した父とも別れ,父の友人一家の助力で命からがら日本に引き揚げてきたらしい。母方の祖母が営む下宿屋には,東京から疎開してきた父方の祖母も身を寄せており,しばらくはそこで暮らすことになったようだ。やがて父も引き揚げ,私自身が学齢になったので父の勤務地である東京に,父方の祖母ともども呼び寄せられたのである。静岡駅で東京行きの列車を待っていると,下りのホームにアメリカ兵が鈴なりになって乗っている列車が入ってきた。彼らは,上りのホームで待っている私たちに向かい,大きな叫び声をあげながらチョコレート,キャラメル,チューインガム,ヌガーなどの高価な菓子類を,雨あられのように投げてよこした。上りホームの日本人たちも,歓声をあげて一つでも多く拾おうとする。見送りに来た親類の一人が,ヌガーを一つ拾ってくれた。東京行きの列車の中で,それを食べたが,その豪華な味が忘れられない。甘いものといえばふかし芋,カルメ焼きぐらいしかたべたことがなかった。チョコレートでくるまれた生クリームの中にピーナツがふんだんに入った,贅沢な逸品であった。アメリカ人はなんて優雅なくらしをしているのだろう,子ども心にそう思ったのを今でも憶えている。
列車が東京に近づく頃は,もう夜だった。横浜を過ぎた頃,車掌がやって来て,「東京駅構内で事故が発生しました。この列車は品川止まりになります」という。乗客には不安が走った。今日のうちに目的地まで行き着くことができるだろうか。降り立った品川駅のホームはトンネルのように暗かった。「シナガワー,シナガワー,ケイヒントーホクセン,ヤマノテセン,ノリカエー」という単調なスピーカーの声とともに,厳冬の夜,凍てつく寒気の中に柱の裸電球が一つ,頼りなげに灯っていた情景が瞼にに焼きついている。
二葉あき子の「夜のプラットホーム」を聴くと,あの品川駅での情景がきのうのことのように甦ってくるのである。なぜだろうか。それは,彼女がおのれを殺して,全精力を歌心(曲想)に傾けて表現するという,たぐいまれな歌唱力を身につけているからだと思う。「星は瞬く,夜深く,鳴りわたる,鳴りわたる,プラットホームの別れのベルよ」という彼女の歌声を聞いて,私は「本当にそうだった」と思う。6歳の私が初めて見た「夜のプラットホーム」は品川駅をおいて他にないのだから。「さようなら,さようなら,君いつ帰る」とは,静岡駅で私を送り出してくれた,心やさしき人々の言葉に他ならなかった。もしかしたら朝鮮戦争に赴くアメリカ兵の言葉だったかもしれない。本来,この歌は戦前,若い出征兵士を見送る,東京駅の情景を見て作られたという。「いつまでも,いつまでも,柱に寄り添い,たたずむ私」という恋人や新妻の気持ちがどのようなものだったか。戦争とは無縁であった私ですら,あの心細い品川駅での情景を思い出すくらいだから,戦死した夫や恋人を追憶する女性の寂寥感は想像に難くない。彼女が大切にしているのは,歌手としての自分の個性ではなく,作詩・作曲者が創り出した作品そのものの個性である,と私は思う。いわゆる「二葉あき子節」など断じて存在しない。彼女が歌う曲は,クラッシックの小品,ブルース,ルンバ,シャンソン,映画主題歌,童謡,軍歌,音頭,デュエットにいたるまでとレパートリーは広く,多種多様である。しかも,その作品ごとに,彼女の歌声は「千変万化」するのである。作品を聴いただけでは,彼女の歌声だとは判別できないものもある。ためしに,「古き花園」(サトウハチロー作詩・早乙女光作曲・昭和14年)「お島千太郎旅唄」(西条八十作詩・奥山貞吉作曲・昭和15年)「めんこい仔馬」(サトウハチロー作詩・仁木他喜雄作曲・昭和15年)「フランチェスカの鐘」(菊田一夫作詩・古関裕而作曲・昭和23年)「水色のワルツ」(藤浦洸作詩・高木東六作曲・昭和25年)などを聴き比べてみれば,わかる。
「フランチェスカの鐘」は,もともと失恋した成人女性の恨み歌であったが,後年,二葉あき子は初老を迎えた自らの変声を生かしし,故郷の被爆地・広島で犠牲になった人々への鎮魂歌として創り変えている。(LPレコード「フランチェスカの鐘・二葉あき子 うたのこころ・昭和42年)                 
私は彼女の歌を聴いただけで,誰が,どこで,何をしながら,どんな気持ちで,何を訴えたいかをストレートに感じとることができる。彼女の歌唱力は,曲の舞台を表現する。登場人物の表情・心象を表現する。そして,情景を構成する気象,風景,星,草花,ハンカーチーフまでも表現してしまうのである。
 いつになっても,作品の中の彼女の声は澄みきっている。二葉あき子の地声ではなく,作詩者,作曲者が思い描いた歌手の声,登場人物の声に徹しようと努めているからである。流行歌は三分間のドラマだといわれるが,彼女ほどそのドラマを誠実に,没個性的に演じ分けた歌手はいないだろう。それが他ならぬ二葉あき子の「個性」であり,「今世紀不世出の歌手」といっても過言ではない,と私は思う。(2004.5.15)
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演歌 (日本の名随筆)演歌 (日本の名随筆)
(1997/12)
天沢 退二郎

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モーツアルト浴

2008年1月26日(土)晴
 私は「音楽」が嫌いだった。なぜか。「歌う」ことが下手だったからである。小学校の授業では「歌う」ことばかり強制されたような気がする。「音を楽しむ」ことが音楽であるはずなのに、どうして歌わなければならないのだろうか。そうした「憤り」は、年長になるにつれてますます強くなった。特に、学期末に行われる「歌唱」の試験は憂鬱だった。一人一人クラス全員の前で課題曲を歌わなければならないからである。小学校4年は「野菊」、中学校では「オールドブラックジョー」を階名で歌わされたことを、今でも憶えている。そんな私が、クラシック音楽に関心を持つようになったのは、還暦を過ぎてからである。動機は至って単純、しかも不純であった。オーケストラで使われる楽器の数々は、さだめし高価な物に違いない。それを演奏できるようになるためにも、高価な授業料が不可欠であろう。だとすれば、楽団に結集した団員の演奏技術、手にしている楽器の金額を合計するとどれくらいになるのだろうか。おそらく数千万円は下らないだろう。だから、そこで演奏される音楽の価値を享受できないことは「損」である。そんな不純な動機(損得計算)で、眠くなるのを我慢しながら、私はテレビのクラシック音楽を視聴するようになったのだが・・・。最初に聞いたのはチャイコフスキーの「悲愴」だった。この交響曲はチャイコフスキーの遺作だという。彼はまもなく自死するので、その死生観が色濃く反映されているように思う。「いつ始まったかわからない」「いつ終わったかわからない」曲の特徴は、いかにも私たちの「生」と「死」を暗示しているようだ。「たよりなく」「不安定な」雰囲気(曲想)が基調になっており、終末近くでは、音が次第に弱くなる、もう終わりかと思うと、息を吹き返したように、また強まり・・・、そして弱くなる、そうしたフレーズを数回繰り返しながら、とうとう本当に何も聞こえなくなってしまう。気がついたときにはもう終わっていた、という按配で、それはまさに「臨終」の息づかいに酷似していると思った。その直後に、今度はベートーベンの「第九」を聴いたが、まるで雰囲気が違う。そこには「生きる喜び」というか、あふれる精気がみなぎっており、その力強さに圧倒されるようだった。音の「繊細さ」「美しさ」「癒し」という点では、「悲愴」が優っているように私は感じた。
 以来、しばらくクラシック音楽に親しんできたが、今ではモーツアルトのCDが私の必需品となっている。「音を楽しむ」どころではない。日光浴、森林浴、温泉浴と同様に、「モーツアルト浴」の効果を確信できるようになった。CDのタイトルは「モーツアルト・ミュージック・セラピー」(パート2・血液循環系疾患の予防<高血圧、心筋梗塞、動脈硬化、脳梗塞など>監修・選曲・解説:和合治久・埼玉医科大学短期大学教授)である。収録曲は、①ピアノ協奏曲第20番ニ短調K466・第2楽章・フリードリヒ・グルダ(ピアノ)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 指揮:クラウディオ・アバド、②ピアノ・ソナタ第15番ハ短調K545・第1楽章、第2楽章・アリシア・デ・ラローチャ(ピアノ)、③ヴァイオリン協奏曲第3番ト長調K216・第1楽章・キドン・クレーメル(ヴァイオリン)、ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団 指揮:ニコラウス・アーノンクール、④弦楽五重奏曲第3番ハ長調K515・第2楽章、第4楽章・メロス弦楽四重奏団、他、⑤ピアノ協奏曲第23番イ長調K488・第1楽章・ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)・ロンドン交響楽団 指揮:クラウディア・アバド、である。
 私はモーツアルトの愛好者(鑑賞者・素人)であって、専門家(研究者)ではない。その独断・偏見によれば、モーツアルトの「音楽」は、私の心身を「実に快く」マッサージしてくれる。その曲想は、「音の万華鏡」とでも言えようか、それぞれの楽音が宝石のように煌めきながら、疲れた心身に降り注ぐのだ。たとえれば、ピアノは「指圧」、ヴァイオリンは「摩擦」効果によって全身を刺激し、クラリネットは、そのフレーズによって「呼吸を整え」てくれるのである。「音楽」は、「耳で聴く」だけではない、楽音を「全身で浴びる」ものであることを、私は学んだ。モーツアルトの音楽は、副作用のない「薬」ではないだろうか。解説には、「・・・高周波のモーツアルトの音楽はさらに効果的に副交感神経が分布する延髄に作用します。この結果、延髄から出ている顔面神経や舌咽神経が刺激されて唾液が出るようになるとともに、心臓や肺、小腸などの内臓にも迷走神経として分布している副交感神経が交感神経の作用に拮抗していくのです。したがって、交感神経優位から生じる病気にブレーキをかけ、その予防や改善につながるといえます。たとえば、モーツアルトの音楽療法で高血圧や激しい心拍がストンと下がったり、唾液がたくさん分泌されるなどの現象、あるいは胃などの消化管活動が高まり便秘が改善されるなどは、よく体験できることなのです」と、書かれている。
 私自身、今から9年前(54歳時)、「脳梗塞」(無症候性)と診断され、以後、服薬治療(パナルジン1日2錠)を続けてきたが、最近の通院時、医師から「症状の進行が見られないので服薬は中止してもよろしい。どうしますか?」と言われたほどである。
まさに「モーツアルト浴」の結果を確信しているのである。
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モーツァルト療法 ~音の最先端セラピー ~3.癒しのモーツァルト ~耳と脳の休息の音楽 ~モーツァルト療法 ~音の最先端セラピー ~3.癒しのモーツァルト ~耳と脳の休息の音楽 ~
(1999/09/22)
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大歌舞伎「御所五郎蔵」・「身替座禅」

2008年1月25日(金)晴
 午後10時30分から、NHK教育テレビ「芸術劇場」(大歌舞伎・「御所五郎蔵」「身替座禅」)視聴。「御所五郎蔵」の配役は、五郎蔵・仁左衛門、星影土右衛門・左団次、傾城皐月・福助、甲屋与五郎・菊五郎他、この芝居のキーパーソンは、傾城皐月であり、見せ場は、その五郎蔵に対する「あいそづかし」(実は見せかけ)の場面だと思われるが、福助の「力量不足」で、その雰囲気を醸し出すことができない。福助は、児太郎時代、若手女形として多くの可能性を秘めていた。しかし大御所・中村歌右衛門の薫陶を受け(させられ)、その芸風を踏襲する(せざるを得ない)立場になってから、本来の「初々しさ」「茶目っ気」、「コミカルな」表情・所作が影を潜め、歌右衛門流の「型」にはまってしまったように感じる。目をつぶって口跡だけを聞いていると、「まさに歌右衛門」そのものなのだ。私の独断と偏見、邪推によれば、歌右衛門は、女形の「伝統」「品格」を最も大切にした役者であり、「大衆受け」する阪東玉三郎的な「芸風」を「品がない」と切り捨てたのではないか。私自身、昭和20年代の舞台を見ているが、当時、女形として活躍していた歌右衛門、尾上梅幸、(時には中村時蔵)などよりも、片岡我童、澤村訥升の「艶姿」の方が印象に残っている。ただ一つ、歌右衛門の「当たり役」として、「東海道四谷怪談」の「お岩」は出色であった。特に、「髪梳きの場」以降、亡霊になった「お岩」が「伊右衛門」を苦しめる姿(所作・口跡・表情)は、何とも恐ろしく、迫真の演技であった。以来、「歌右衛門といえばお岩」という連想がこびりついてしまい、どんなに華やかな舞台であっても、歌右衛門の姿を見るたびに「お岩の亡霊」を感じてしまうのである。
 福助が歌右衛門を目指すことに異論はない。それが大歌舞伎の「伝統」というものであろう。ただ、歌右衛門の芸風に盲従すればするほど、「大衆」から離れた世界に落ち込んでしまうのではないか、と私は思う。 
 「身替座禅」の配役は、山陰右京・団十郎、太郎冠者・染五郎、奥方玉の井・左団次。奥方をだまし、愛人のところへ駆けつけるまでの団十郎は「まあまあ」だったが、遊興から帰宅した後の所作(舞踊)が、いかにも「退屈」である。それが現・団十郎の実力であり、仕方がないとはいえ、奥方・左団次の所作が秀逸なだけに、残念である。日頃は「立ち役」の左団次が、奥方玉の井を演じるのは余興。重厚であり、かつ涼しげな風情を感じさせる「上品」な姿であったが、一転して悋気に狂った表情は「立ち役」そのもの、そうではなく、鬼気迫る「般若」(女性)の気配が欲しかった。
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テレビドラマ「僕の歩く道」

2008年1月24日(木)晴(強風)
  午後10時から、テレビドラマ「だいすき」(TBS)視聴。知的障害の女性がシングルマザー(相手の男性は事故死)として「子育て」に取り組む筋立てだが、ドラマの設定自体に無理があるようだ。知的障害の程度が「中度」の場合には、周囲のサポートが不可欠だが、女性の母親、兄は当然としても、「養護施設」で育った正体不明の女性が、家族の中に闖入し、その支援を担うという設定は「非現実的」ではないか。かたや知的障害、かたや情緒障害(虚言癖)、その両者が「世間」の無理解・偏見と闘い、相互の絆を強く結び合い、「子育て」の最も必要な「愛」(「だいすき」という心情)とは何かを問いかける、といったモチーフが「見え見え」のように感じた。しかし、シングルマザーの娘役・「ひまわり」を演じた子役の演技は光っていた。周囲のサポートが不十分のまま育てられれば、どのような表情、言動が生じるかを「目の当たり」に見せてくれたような気がする。今後の展開を見守りたい。以下は、一昨年視聴したテレビドラマの感想文(「フジテレビ」宛)である。

<「僕の歩く道」感想>
 テレビドラマ「僕の歩く道」が終わりましたので、その感想を述べてみたいと思います。
昨年11月の中旬に、私はこのドラマの感想を東京新聞の<反響欄>に投稿しました。次のような内容です。 
<「僕」を含めた登場人物全員が、相互の関わりを通して「どのように変化(成長)するか。特に、「僕」の血族である兄、妹、親族である義姉、甥、また他人ではあるが、障害児の父であった「古賀」という人物の「変化」に私は注目している。「僕」の存在が、彼らの視野を広げ、豊かな感性を育む役割を果たすことは間違いない。そのことが、また「僕」の成長を保障するのだと思う。「古賀」は別れた「我が子」にどのような姿で再会するだろうか。> 結果は、趣旨を妨げない程度に省略された文章で掲載されましたが、その後のドラマの展開にどのような影響を与えたかはわかりません。しかし、回が進むにつれて、視聴率が向上し最終回の頃にはベスト5にランキングされたことは事実です。電車の中で、若者同士の会話を耳にしました。一人の女子学生が黄色いジャンパーを着ていたのです。「よく、私のことを見つけられたじゃない」もう一人の学生が言いました。「だって、そのジャンパー、目立つんだもん」「ああ、これね。ほら『僕の歩く道』って見てる?クサナギ君が着てるのと同じ色」「見てないなあ」「そう?私、ずーっと見てるの。障害者の話なの」「フーン・・・。じゃあ、見てみようかな」なるほど、そんな形でドラマの人気が高まっているのかと、少しうれしくなりました。
 さて、「僕」を含めた登場人物全員が、相互の関わりを通して「どのように変化(成長)するか、という視点は「最終回」に集約されていたと思います。「僕」を含めた、ほとんどの登場人物が変化(成長)したように感じます。ドラマは専門家の医事監修を経ているので極端な「ハッピーエンド」でなかったことにも好感がもてました。
 「僕」との関わりを通して、最も変化の大きかった人物は、義姉、甥、動物園長だったように思います。彼らは「僕」にとって「いわば他人」であり、また「自閉症」という障害について、最も「無知」「誤解」していた人物だったかも知れません。義姉は自分の教育方針を改め、甥は「あこがれ」の気持ちで「僕」を見つめ、動物園長は「動物愛護」にもとづいた動物園経営の理念に目覚めました。それが「僕」の果たした大きな「役割」だと思います。
 一方、最も変化の小さかった人物は、幼友達の「都古ちゃん」、ロードバイクの友人でした。彼らは、
当初から「僕」の理解者であり、「自閉症」というレッテルで「僕」を見ていなかったことが共通しています。つまり、「変化」する必要がなかった人物です。「都古ちゃん」は、「僕」の進路について、家族に立ち入ってまで「グループホームでの自立」を進言しています。また、ロードバイクの友人は、「僕」のレース参加を支援しましたが、兄からの伴走依頼を、こともなげに断りました。いずれも、「僕」の「実力」を理解し、可能性を信じていたからではないでしょうか。二人は、正に「教員」の役割を果たしていたのだと思います。 
では、「僕」の血族、兄、妹、母の変化はどのようなものだったでしょうか。つねに、「苦しみ」を伴った変化でした。妹は、「僕」の主治医の前で、母に甘えられなかった過去を告白し、号泣しました。兄もまた、「なぜ『僕』のような弟をもたなければならなかったか。自分だけがイヤな思いをさせられなければならないか」を、苦しみ続けました。今でも、親亡き後の「僕」をどうするか、という問題に直面しています。しかし、彼らは、「行ったり来たり」ではあるけれど、確実に変化(成長)している「僕」の姿を感じ始めたのではないでしょうか。いずれにせよ、昔のように「僕」を助ける必要が「減りつつある」ことを確信し始めたことは間違いありません。
 当然のこととはいえ、最も苦しんだのは母でした。「僕」を生んだのは自分であり、「僕」を最も愛していたからです。「できることが多いのがよくて、少ないのが悪いってわけじゃないの。できることを一生懸命やればいい」。「僕」が母から教えられた言葉です。この言葉は、人間を「減点法」(100点満点主義)ではなく、「加点法」(学習は0点から出発する)で評価することが大切であることを語っています。正に、「教育の基本」だと思います。母にとっては、「僕」を育てる「葛藤」を通して、つまり「僕」の存在から「学んだ」唯一の鉄則だったのではないでしょうか。
ロードレース大会で、「僕」はゴール寸前、トンビを追いかけて横道にそれました。兄は驚いて「僕」を追いかけようとします。そんな兄に向かって母は叫びました。「待って!」とっさの判断でした。そして自分自身に言い聞かせるように、つぶやきます。「・・・待ちましょう」。このこともまた、「教育の基本」だと思います。その結果、「僕」はトンビの飛翔する姿を初めて目にすることができたのでした。「僕」は、「自立」(グループホームでの生活)を決意します。ドラマとはいえ「お見事」というほかありません。母は、苦しみに苦しみ抜いた結果、「僕」の成長を確信できるまでに「変化」したのだと思います。
 「僕」自身の「変化」(成長)は数え切れないほどあります。「できる仕事」がふえ、人間(特に「都古」)の表情に注目するようになりました。しかし、最も確実な「変化」は、毎日投函する「都古ちゃんへ」という手紙だと思います。当初は、決まったように「三行」で終わっていましたが、最終回の頃になると「四行」に増えています。伝えたい内容(心の世界)が豊かになったためではないでしょうか。「自閉症」の問題の一つとして「コミュニケーションの障害」が挙げられています。(私自身は「感覚過敏」が本質的な問題だと考えていますが・・・)だとすれば、「僕」は、様々な経験、人との「関わり」を通して「コミュニケーションの障害」を克服しはじめたとは考えられないでしょうか。
 我が子が「自閉症」だった父、「古賀」もまた、「僕」の「変化」(成長)から、多くのことを学んだに違いありません。当初、凍りついたような彼の表情は、明らかに変化しています。まずは「我が子」との再会を果たし、「これからは自分の番だ」という自立支援への決意がうかがわれました。
 最後に、(損な役回りとはいえ)「全く変化しない」人物がいました。「都古ちゃん」から離婚を言い渡された配偶者です。ドラマの中では「少数派」かも知れません。しかし、現実の社会では、「多数派」に逆転します。ドラマほど甘くはないと思います。この現実こそが私たちの大きな課題です。とはいえ、当初、閑散としていた動物園の入場者が増加し始めたように、現実の「視聴率」も向上しました。私が電車の中で出会った「若者たち」の存在も現実です。今後の「社会の変化」に期待したいと思います。(2006.12.23)
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(2007/03/07)
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温泉素描《法師温泉長壽館》(群馬県)

2008年1月23日(水)雪のち雨
  「日本温泉めぐり」(田山花袋・角川春樹事務所・1997年)を読み始める。解説によれば、花袋は明治人、「旅行家」と自称するくらい全国各地を歩き回り、数多くの紀行文を残したそうである。私も行ったことがある「吾妻の諸温泉」という章から読み始めた。「自然主義」作家の文体で、わかりやすく平易に綴られていたが、解説にもあるように「大きな声では言いづらいのだが、花袋は小説も紀行文も技巧的にも先天的にもうまさというものが少ないと思う。そのために、体験が稚拙なほどに羅列されているのだが、とにかく、事細かだけに真実味がある」(塩野米松・作家)。吾妻の諸温泉として、四万、沢渡、川原湯が挙げられていたが、「法師温泉長壽館」が欠落していたのはなぜだろうか。私の稚拙な雑文で埋め合わせたい。

<温泉素描・法師温泉長壽館・群馬県>
今や、群馬県法師温泉「長壽館」は<国宝級>の温泉となった。
国鉄の観光ポスターで一躍有名となったが、「俗化」するどころか益々「秘湯」への道を極めつつあるのである。ここを訪れたさまざまな人々に「温泉とは何か」を教えてくれる稀有な温泉である。
 湯は透明で、浴槽の底に敷かれた玉砂利の間から、一泡、二泡と数秒間隔で沸き上がる。それは大地のやさしい息づかいにも見え、傷ついた私たちの身や心をあたたかく包み込んでくれる。飲めば卵酒に似て、都会生活で汚染された私たちの五臓六腑に沁みわたり、種々の毒物をきれいに洗い流してくれるようだ。
 温泉の真髄は「泉質」にあるが、ここではその「泉質」をさらに磨き上げようとして、ありとあらゆる工夫がなされている。たとえば、浴槽、浴室、客室にふんだんに取り入れられている木材の活用である。浴槽は木枠で大きく四つに仕切られ、ひとつひとつの浴槽には太い丸太が渡されている。それは私たちが長時間、湯に浸るための枕なのである。湯は絶え間なくあふれ、浴槽に沿って造られた排水路からすべるように流れ出ていく。見事な設計である。浴場は窓枠の鉄を除いて、床、壁、天井にいたるまで、すべてが木造建築である。浴槽の中で丸太に身をあずけ天井を見上げれば、組木細工にも似た匠の技を心ゆくまで味わうことができる。湯滴がポツリと落ちてくることなどあり得ないのである。浴場は毎朝の手入れによってどこまでも清潔に保たれているが、窓枠に張られた蜘蛛の巣を見逃すことはできない。浴場にしつらえられた行燈の灯りを求めてやってくる蛾や羽蟻をそれとなく防いでくれるのであろう。
 ふんだんに取り入れられた木材の活用は、私たちの嗅覚をなつかしく刺激する。遠く過ぎ去った日々への郷愁をあざやかに呼び起こしてくれるのである。玄関、廊下、客室にただよう独特の匂いは、まさに「日本の家」の匂いであり、幼かった日々の思い出や、懐かしい人々の面影を一瞬のうちによみがえらせてくれるはずである。驚嘆すべきは、廊下から浴場につながる、ほんの一渡り「床」である。私はこの「床」に「法師温泉長壽館」のすべてを見るような気がした。段差のある渡りを、折り曲げた木材でスロープのようにつないでいるのである。研ぎすまされた建築技術と、それを守りつづけようとする従業員の営みに脱帽する他はない。
 さらにたとえば、館内の照明である。蛍光灯は極度に制限され、浴場はもとより玄関、廊下、客室のすべてに白熱灯が使用されている。傷ついた身や心を癒してくれるのは「ぬくもり」以外の何物でもなく、裸電球のおだやかな光が館内を温かく照らし出しているのである。私たちは眩しすぎる明るさに慣れきってしまったが、「日本の家」の明るさは、陽光、月光、篝火、灯火など自然の産物によってもたらされてきたことを忘れてはならないだろう。それは自然の暗闇を前提とした明るさに過ぎないものであり、今となってはむしろ、ここの浴場のような暗さの中にこそ本当の明るさが潜んでいるのではあるまいか。客室にはテレビが備え付けられているが、そこに映し出される様々な情景が玩具の世界のように感じられて興味深い。縁側の籐椅子にもたれて、空ゆく雲を眺め、川の瀬音を聞いている方が飽きないのである。テレビの騒音など川の瀬音に見事にかき消されてしまう。 そういえば、この法師川の流れも重要な役割を果たしている。というより、この法師川こそが法師温泉の母胎なのだということを銘記しなければならない。温泉はこの川の中から湧き出ているのであり、浴場は太古の昔の河床の上に建っているのである。「川の音が気になって眠れなかった」などと言うことは笑止千万である。身も心も傷ついた者にとっては、やさしい母の声にも似た、自然の「子守歌」に聞こえるはずである。
 法師温泉のたたずまいと、「泉質」を磨き上げようとしてなされるありとあらゆる工夫は、それ自体として一つの「文化」を形成している。それは現代の機械文明、消費文化、情報化社会などといった営みとは無縁のように思われる。大自然との対峙を通して培われた「畏れ」によって生み出された創造であり、いたるところに「自然との一体化」「虚飾の排除」といった姿勢がつらぬかれている。とはいえ、単なる「自然への回帰」を志向するのではなく、むしろ逆に、自然の立場から必要最小限の現代文明を取り入れようとする事実が<国宝級>なのである。浴場の壁に取り付けられた「時計」がそのことを象徴的に裏づけている。入湯している者にとって時計は不可欠のものであることを、法師温泉は知っているのである。
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(2009/03/26)
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「墨東綺譚」(永井荷風)

2008年1月22日(火)晴
  「墨(正しくはサンズイの漢字)綺譚」(永井荷風・岩波文庫・1947年)読了。表紙の案内によれば、「老境の作家と町の女お雪とのはかない交情を、梅雨あけから秋の彼岸までの移り変わりとともに、詩情豊かに描きだす。日中戦争が勃発した昭和12年、木村荘八の挿絵で『朝日新聞』に連載された」とある。永井荷風は、明治12年(1879年)生まれ、20歳代(明治30年代後半)から、「地獄の花」「夢の女」「あめりか物語」「ふらんす物語」「すみだ川」などの作品を次々として発表し、明治末期には、文壇における「耽美派の驍将」としての地位を確固なものとしていた。しかし、通説によれば、転機が訪れる。<「明治四十四年慶應義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車が五六台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走っていくのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折程云うに云われない厭な心持のしたことはなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入れを下げ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。(以下略)」(『花火』大正8年)「この思想問題」というのは言うまでもなく、いわゆる大逆事件である。この事件に対する荷風の批判と、それゆえの市隠・韜晦への意向をを述べて、文脈にやや整理されすぎた疑問は残るが、西欧への陶酔と日本近代への呪詛とに出て、日常や道徳やひいては社会や国家にまで背を向けての江戸趣味や美的自律性への傾倒やは、やはり耽美主義(あるいは新浪漫主義)のひとつの典型的な頂点を示す“宣言"であったといえる。>(「現代日本文学史」第二章・高橋春雄・笠間書院・1988年)                                                       荷風は本名・壮吉、荷風の「荷」とは「蓮」の意で、初恋の女性の名から採ったという。「耽美派の驍将」としては、もともと本名の「壮」(血気盛んな男)は似つかわしくなかったが、日本近代への呪詛の根底には、大逆事件を「傍観」した自分自身への羞恥(男心・義侠心)が秘められていたことは確かであろう。
 さて、件の「墨東奇譚」は、昭和12年(1937年)、荷風58歳時の作物である。すでに「有名人」としての地位を固め終わった「老境の作家」が、まだ明治末期の風情を辛うじて残している墨東(東京・向島)の私娼窟に通いつめる物語だが、森鴎外「雁」と同様、登場人物は「淡々と」その日常を過ごすのみで、筋書に大きな(劇的な)展開は見られない。「知識人」の代表である「わたし」と、「非知識人」の代表である「お雪」との交情そのものが「劇的」なのであろう。昔、観た「泥だらけの純情」(監督・中平康・主演・浜田光夫・吉永小百合)の中で、やくざの兄貴(小池朝雄)が弟分のチンピラ(浜田光夫)を諭すセリフ「あのスケ(外交官令嬢・吉永小百合)とオメエは住んでる世界が違うんだ。そこんところをよーく考えるんだな・・・」を思い出す。同じ日本人でありながら「住んでいる世界が違う」という社会、「近代」(四民平等)という言葉の虚妄、自分が「知識人」であることを捨てきれない「現実」、みんなで「同じ世界に住みたい」という願望(夢)、それやこれやが入り交じった「哀愁」が漂う作品ではあった。
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「雁」(森鴎外)

2008年1月20日(日)晴のち曇
森鴎外の小説「雁」(大正2年・「日本文学全集5・新潮社」)読了。主なる登場人物は、物語の語り手である「僕」、その学友・岡田、石原、無縁坂に囲われている美女・お玉とその父、お玉の旦那・高利貸しの末造とその妻、以上7人である。物語の舞台は、東京・本郷周辺(湯島・上野不忍池・無縁坂)、時代は明治13年の出来事ということになっている。では、その出来事とは何か。大した出来事ではない。不忍池に群れていた雁の一羽が殺されたのである。殺したのは「僕」の学友・岡田、それも故意ではなく偶然の結果である。その日、下宿屋の夕食が「鯖の味噌煮」であることを知った「僕」は、それが「身の毛の弥立つほど厭な菜」と感じていたので、岡田を誘って散歩に出る。二人が不忍池まで来たとき、「岸の上に立って何かを見ている学生らしい青年」・(顔見知りの)石原に出会う。「こんな所に立って何を見ているのだ」と「僕が問う」と、「石原は黙って」「十羽ばかりの雁が緩やかに往来している」様子を指差した。そして「あれまで石が届くか」と岡田に言う。岡田は「届くことは届くが、中るか中らぬかが疑問だ」と答えると、石原は「遣って見給え」と言う。「岡田は躊躇した。『あれはもう寝るのだろう。石を投げつけるのは可哀想だ』石原は笑った。『そう物の哀れを知りすぎては困るなあ。君が投げんと云うなら、僕が投げる』岡田は不精らしく石を拾った。『そんなら僕が逃がして遣る』つぶてはひゆうと云う微かな響きをさせて飛んだ。僕がその行方をぢっと見ていると、一羽の雁が擡げていた頸をぐたりと垂れた。それと同時に二三羽の雁が鳴きつつ羽たたきをして、水面を滑って散った。しかし飛び起ちはしなかった。頸を垂れた雁は動かずにもとの所にいる。『中った』と、石原が云った」。
明治13年の出来事とは、以上のとおりである。いわば、若者が悪戯半分でやった遊びに過ぎない。しかも、岡田が「逃がしてやる」と善意で投げた石が、運悪く一羽の雁に命中してしまったのだ。その後、哀れな雁は「僕」、岡田、石原たちが催す酒宴の肴になってしまうという、後味の悪い物語である。
 ではいったい、この小説が文豪・森鴎外の作品として古典化しているのはなぜか。その背景に、「僕」が羨ましいと感じているほどの才子・岡田と、無縁坂の美しい囲われもの・お玉との「淡い」交情が秘められているからである。岡田とお玉の交情は、顔を合わせた時、互いに挨拶を交わすほどの「かかわり」に過ぎないが、「僕」は感じている。秘かにお玉が岡田を恋慕していることを・・・。また、お玉の旦那・末造の女房も感じている。亭主が秘かにお玉を囲っていることを・・・。しかし、日常は淡々と過ぎていくだけで、何事も起こらない。「出来事」といえば、一羽の雁が運悪く殺されたということだけである。その翌日、岡田は縁あってドイツ留学に旅立ち、お玉との交情は断絶する。おそらく、「僕」自身は、哀れな雁とお玉の運命を「二重写し」に見ているのだろう。いや、他ならぬ「僕」自身が秘かにお玉を恋慕していたのかも知れない。それかあらぬか、この物語は以下の文節で終わっている。「一本の釘から大事件が生ずるように、鯖の味噌煮が上条(注・下宿屋)の夕食の膳に上ったために、岡田とお玉とは永遠に相見ることを得ずにしてしまった。そればかりでは無い。しかしそれ以上の事は雁と云う物語の範囲外にある。僕は今この物語を書いてしまって、指を折って数えてみると、もうその時から三十五年を経過している。物語の一半は、親しく岡田に交っていて見たのだが、他の一半は岡田が去った後に、図らずもお玉と相識になって聞いたのである。例えば実体鏡の下にある左右二枚の図を、一の映像として視るように、前に見たことと後に聞いた事とを、照らし合わせて作ったのがこの物語である。読者は僕に問うかも知れない。『お玉とはどうして相識になって、どんな場合にそれを聞いたか』と問うかも知れない。しかし、これに対する答も、前に云った通り、物語の範囲外にある。只僕にお玉の情人になる要約の備わっていぬことは論をまたぬから、読者は無用の憶測をせぬがよい」
 読者にとって、何とも思わせぶりな結末ではあった。
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知識人の情操

2008年1月19日(土)晴
 「日本の名随筆91・裁判」(佐木隆三編・作品社・1998年)読了。田中美知太郎、徳富蘆花、川端康成、宇野浩二、伊藤整、渋沢龍彦、野坂昭如、大岡昇平、木下順二、亀井勝一郎、中野重治、正木ひろし等に交じって、倉田卓次という人が「裁判官の国語力は○○○並か・給付判決文の用語をめぐって」という随筆を書いている。巻末の「執筆者紹介」によれば、著者は「1922年生まれ 裁判官。公証人を経て弁護士。東京帝国大学法学部に進学するが学徒出陣となり、戦後東京大学に復学して卒業。東京家地裁判事補を皮切りに、札幌高裁判事となる。民事実務畑を歩いた経験を生かした『民事交通訴訟の課題』『交通事故賠償の諸相』『民事実務と証明論』などの著書がある。他の著書にエッセイ集『裁判官の書斎』四冊、『裁判官の戦後史』二冊などがある」そうだ。今回、その著者の作物を初めて読んだが、たいへん面白かった。文章の内容は、著名な科学評論家・鎮目恭夫氏が法律雑誌に「先ごろ私は、ささやかな民事訴訟に巻き込まれたおかげで、日本の裁判官や弁護士を養成する司法研修所の先生方の国語能力がせいぜい○○○並だということを発見した」と書いたことへの反論である。著者は以下のように書いている。<鎮目恭夫氏のエッセイは(略)『連帯債務者への各自支払』の主文の問題をあげつらったものである。氏が友人のワープロリース契約の連帯保証人になったことから、友人と氏とに対する「被告らは、原告に対し、各自90万円を支払え」という判決文が届いた、というのだが、それに対する氏の感想は、皮肉な、というか、嘲笑的というか、ひどく悪意のある行文なので、要約するより、そのまま原文の一部を引く方がニュアンスが伝えられよう。『さて、私は判決文を見て、各自90万円だから二人で180万円、ずいぶん値上げした判決だとあきれて、控訴を決意した。そして知り合いの弁護士に相談したら、「ああ、その“各自”というのは“連帯して”と同じ意味ですよ」と言って、司法研修所編『民事判決起案の手引き』をみせてくれた・・・。「数名の被告が原告に対し連帯債務を負うものと判断した場合、(判決の)主文に『被告らは、原告に対して各自○○円を支払え』と書く場合と、『被告らは、原告に対し、連帯して金○○円を支払え』と書く場合とがあるが、どちらでも差し支えない。前者は、右のような共同訴訟は、ほんらい被告各自に対する請求を併合したもので、したがって判決の主文も、被告ごとに独立したものであり、他の被告との連帯関係のごときは、理論上主文に表示する必要がないという見解によるものである・・・」この通りの悪文で、昔の代官風の言い廻しも含むのはさておき、論理的にみると、判決主文に簡潔のための「連帯して」を書かないのはいいが、そうなら「合計○○円を」とか、単に「○○円を」と書くべきで、「連帯して」の代わりに「各自」と書くのは論理上絶対的な誤りだ。「各自」と「連帯して」の区別をつけない頭では、▼▼の入学試験でさえ、国語と数学では落第確実だ。社会科なら超優等になるかもしれない。・・・」(略)現職の裁判官当時だったら、時間をつぶして係り合う気にもなれぬアホくさい文章であるが、今はその位の暇はあるし、筆者自身は大まじめに書いているようだから、一応本気で返事しておこう。」ここまで読んで、私は鎮目氏の感想はよく理解できた。まったくその通りだと思う。しかし著者の返事(反論)は以下の通りである。<連帯債務関係にある複数被告に対する給付の主文は、私が修習生の時は、「連帯して」「各自」「合同して」を連帯債務、不真正連帯債務、手形債務で使い分けるように教わった。(略)ちなみに、ドイツの判決でも(略)〔連帯債務者〕に対する主文では(略)「連帯して」を加えるのが常である。(略)しかし、理論的には「各自」の方がいいということは戦前からいわれていたことで(略)その頃の判決例もある。(略)理論上は「各自」でいいのだが、便宜上「連帯して」にしている例が多い(略)。しかし、昭和43年に坂井芳雄判事の論文(略)が理由中の判断に既判力がない以上、連帯は確定されていないのだから、主文に「連帯して」とするのは誤りであると、改めて明確な指摘をして以後は、実務上でも「各自」とする人の方が多くなったようである。(略)しかし、通常の共同訴訟で同額になる場合と連帯責務の場合とを書き分けたいという裁判実務上の志向は払拭しがたいものがあり、結局、「各自」は、元来は「それぞれ」という意味であったのが、いつか一部の実務家の間では、連帯債務、不真正連帯債務、手形債務等にのみ使われる特殊な意味を担うようになり、そういう関係にない甲、乙それぞれが同額の給付義務を負う場合は「各」を用いて、違いを書き分ける人も出て来た。(略)以上を予備知識とした上で・・・>というように著者の返事は綴られていくが、専門外の私には、その予備知識が理解できない。①「連帯して」は連帯債務、「各自」は不真正債務、「合同して」は手形債務と使い分けることが原則であり、ドイツの判決でも、連帯債務者に対する主文では「連帯して」を加えるのが常なのに、理論的には「各自」のほうがいいと戦前からいわれていたのはなぜだろうか。②鎮目氏の事案は、連帯債務なのか、不真正債務なのか。(連帯債務と不真正債務とはどう違うのか)③通常の共同訴訟で同額になる場合と連帯債務の場合とはどう違うのか。鎮目氏の場合はちらなのか。④「各自」は、元来は「それぞれ」という意味であったのなら、鎮目氏が、元来の意味で理解することは当然ではないだろうか。著者の返事(反論)は、さらに続く。<鎮目氏の事案をみると、氏の非難の見当外れは明らかだ。氏は友人のほかに自分にも同金額の支払いを命ぜられたのを不満とはしていないが、それは連帯保証した以上当然で、友人のとは別の手続で自分だけを相手にする訴訟を起こされても仕方なかったところなのだ。それが二人一緒だから(略)「被告各自に対する請求を併合したもの」となって、本来なら主文で「甲は90万円支払え」「乙は90万円支払え」と二つ別々に並べるところを、同じ金額だから纏めて「各自」とやっているのである。判決理由を読めば、連帯債務であることは分かった筈である。二人共に支払う必要はないのだが、主文としては別々に「甲は支払え」「乙は支払え」とせなばならないのは、いくら判決で支払えといわれても、素直に支払う人ばかりではないから、それを債務名義として強制執行するためでもある。(略)鎮目氏は、主文というものが債務名義として作られるという一番肝腎なところを全然理解せずに・・・というより、おそらくそういう問題を何も知らずに(高校の社会科なら教えるだろうから、この人の裁判制度理解は○○○並といえよう)・・・判決書を裁判官が被告に出した手紙かなんかのように考えて、その文言を批判しようといきまいてしまったのである>。
 この返事(反論)を読んで、鎮目氏は納得しただろうか。「主文というものが債務名義として作られるという一番肝腎なところ」を理解している国民が、法曹関係者を除いて何人いるだろうか。「債務名義として作られる」という文言も、私には意味不明である。「として」という句を国語(文法)的に解釈すれば、主文イコール債務名義ということになる。それとも「債務名義に対して」という意味なのだろうか。要するに「判決の主文を読むのは『法知識(人)』であって、被告という立場の(無知な)人間ではない」という返事(反論)であったように思う。著者の意識下には「我々、専門家を○○○呼ばわりするなどもってのほか、素人が何をほざくか」といった「「憤り」「思い上がり」があるようだ。私が面白かったのは、かたや著名な科学評論家、かたや東大出の裁判官経験者が、お互いに相手を「○○○並み」と罵倒しあっている「情けない」姿である。国民全体の「平均学力」は○○校4年レベルといわれていることを、この二人は知っているのだろうか。相手を「○○○並み」と罵倒することは、同時に、国民全体を「×××並み」と罵倒していることに他ならない。「知識人」と呼ばれる人たちの「貧弱な情操」を垣間見ることができたような気がする。
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(1998/09)
佐木 隆三

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「英語でしゃべらナイト」

2008年1月14日(月)成人の日・晴時々曇 

NHKに「英語でしゃべらナイト」という番組がある。私が知りたいことは、その次にどのような文末を想定しているのだろうか、ということである。「一人前ではない」「国際社会では通用しない」「これからは生きていけない」などの文末が想定されるが、いずれにせよ、「英語をしゃべれること」は有為であり、社会生活の中で「優位」に立てるといった価値観に基づいていることは間違いないだろう。思うに、「日本語をしゃべれる」人にとって「英語をしゃべる」ことは、それほど難しいことではないだろう。現代の日本人は中学校で3年間、高校進学者は、さらに3年間、大学進学者はそのうえ数年間、英語を学習している。しかし、「学校教育」だけで「英語をしゃべれる」ようになった人は皆無に等しいのではないだろうか。そうでなければ「駅前留学」などという学習塾が、これほど繁盛するはずがない。「学校教育」だけで「英語をしゃべれる」ようにならないのはなぜか。「英語教育」の方法が間違っているからである。(英語教育の専門家が「しゃべることは目的にしていない。読むことの方が大切だ」と言ってしまえばそれまでの話だが・・・。ちなみに、「中学校学習指導要領」では、「英語で話すことに慣れ親しみ、初歩的な英語を用いて自分の考えなどを話すことができるようにする」<第9節外国語 第2各言語の目標及び内容等 1目標 (2)>とある。)「英語をしゃべれる」ようにするためには、「英語を聞き分けられる」ようにすることが必要不可欠である。しかし、現行(学校)の「英語教育」では、「聞く学習」が重要視されていないのではないだろうか。 昨年、ある研修会で話したことを思い出した。以下は、その講義録(一部)である。

 さて、私は今、日本語を話しています。しかし、英語を話すことはできません。中学校、高校、大学と10年間も英語を勉強したはずなのに、英語を話すことはできません。なぜでしょうか。また、日本語は、特にとりたてて勉強したわけではないのに、気がつくと、話せるようになっていました。なぜでしょうか。
 日本語を話せるのに英語は話せない、その理由は、私の頭の中に日本語は入っているのに英語は入っていないからです。学校で10年間も勉強したのに、どうして入らなかったのでしょうか。答えは簡単です。「入れ方」を間違えたのです。私は中学校で、教科書を見ながら、アルファベットの「文字」を読んだり、書いたりすることから始めました。つまり、英語を「見る」「書く」という方法で頭の中に入れようとしたのです。言い換えれば、英語を「文字言語」として、頭の中に入れようとしたのです。では、日本語の場合はどうでしょう。私は、物心ついたとき、すでに日本語を話せるようになっていました。それ以前に「五十音」や「かな文字」の勉強をしたおぼえはありません。にもかかわらず、私は日本語を話せるようになったのです。なぜでしょうか。日本語を「文字言語」として頭に入れようとしなかったからでしょう。言い換えれば、日本語を「音声言語」として、頭に入れたからです。「見る」「書く」という方法ではなく、ただひたすら「聞く」という方法で日本語を学んだからだと思います。中学校以後の英語の学習を思い出してみても、「聞く」という方法は、「見る」「書く」に比べて、大変わずかだったように感じます。母国語と外国語の学習方法が異なることは当然でしょうが、それにしても「聞く」活動は少なすぎました。その結果、私は英語(文字)を「見たり」「書いたり」すれば、ある程度その意味を理解できるのに、「聞いただけでは」ほとんど理解できないという、「学習障害」の状態に陥ってしまったのです。言語発達の筋道で考えれば、まず、①聞いて理解する、②聞いた音声を再現する,③音声と文字を対応(マッチング)する、④文字を音声化する(音読)という順序をたどるのが自然です。しかし、私の英語学習は、いきなり③の音声と文字を対応する(アルファベットを音読する)というステップから始めたため、①②の「音声言語」を聞いたり話したりするというステップが「未履修」だったということになります。
 言語を身につけるうえで、最も大切な学習は「聞く」という活動です。「聞く」ことによって、その言語の音韻体系、意味を頭の中に取り入れ、定着することができるのです。しかし「聞く」という活動は、目に見えません。学習活動としては「評価」しにくいという特徴があります。「話す」という活動も、テープに録音しなければ記録できず、その結果を「評価」することがむずかしいでしょう。そんなわけで、中学校からの「英語教育」は「文字言語」偏重になってしまったのかもしれません。
私が今、日本語を話せるのは、耳がよく聞こえていたからです。日本語を「聞く」ことができたからです。「聞く」ことによって、日本語の音韻体系、意味を頭の中に取り入れ、定着することができたからです。おそらく、私はそのことを、生まれて3年間の間にやり終えていたのでしょう。ですから、私はそのことをはっきりとは憶えていません。気がついたときには、もうあたりまえのように、日本語を話していたのです。3歳頃の思い出として、私は「カジミマイ」という言葉を思い出します。私が「カジミマイ」と言うと、周囲の大人が笑うのです。本当は「紙芝居」と言わなければならなかったのに、私は「カジミマイ」としか発音できなかったのでしょう。まだ、日本語の音韻体系を的確に聞き分けることができず、正確に発音できない段階だったと考えられます。しかし、周囲の大人は「好意的」に笑って「許して」くれました。まだ3歳だから、正確な発音でなくても、日本語として認めてくれたのだと思います。その結果、私は大きなダメージを受けることなく、自信を失うことなく、日本語を身につけることができたのです。
 一方、私が今、英語を話せないのは、なぜでしょうか。前にも述べましたが、「英語」を「聞く」ことができなかったからです。耳がよく聞こえているにもかかわらず、英語の音韻体系や意味を的確に聞き分けることができないからだと思います。学校で10年間、英語の学習を行いましたが、単語のスペルを「見て」「書いて」憶える、名詞の単数形・複数形、格変化、動詞の現在・過去・未来、関係代名詞などなど、正しい文法を憶える、そして文章を「和訳」すること等に終始し、最も大切な「聞く」という学習はほとんど行わなかったのです。また、学校では、「カジミマイ」のような「誤り」を、「笑って許してもらえる」雰囲気はありませんでした。スペルの一文字が違っただけで「厳しく」訂正されるのです。そのことが繰り返されれば、自信を失い、意欲が減退することは当然の結果だと思います。
言語を身につけるうえで、最も大切な「留意点」は、「楽しく」「いい気になって」「笑って許してもらえる」雰囲気づくりではないでしょうか。
 以上を要約すると、言語の学習で最も大切な学習は、「聞く力」を育てることであり、それは「楽しい」雰囲気の中で行われることが有効的である、ということです。 
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w先生の話

2008年 1月13日(晴)                                                                      年賀状の返信を書きながら、「W先生の話」という雑文を思い出した。以下のとおりである。 W先生の服装は、いつも決まっていた。黒のジャケットに、黒ネクタイ、白のワイシャツに黒ズボン。夏場は、さすがにジャケットは省かれ、ワイシャツも半袖に替わったが、黒ネクタイと黒ズボンに変わりはなかった。
周囲の人は、「どうして、あの先生は、毎日お葬式みたいな恰好をしているんだろう」と訝ったが、誰も直接、問いただすことはなかった。「おしゃれは黒に始まって、黒に終わるんだよ。あの先生は本当はおしゃれなんだ」と、言う人もあったが、本当にそうだろうか。私は、「どうしてもW先生に直接、おたずねしたい」という気持ちが高まった。しかし、W先生は「雲の上の存在」である。私は敬愛しているが、いつも「仕事」のことで「お叱り」を受けてばかりいた。「あなたのレポートには『チアノーゼに罹り』とあったが、それは間違い。チアノーゼとは、血液中の酸素が欠乏して、皮膚が紫色なる状態のこと言うのだから疾患ではない。だから、『罹り』という表現は適切ではない。もっと勉強をするように!」という「お叱り」が皮切りであった。私自身のプライドが邪魔をして、「お叱り」を受けるたびに「近づきにくい」存在になっていった。ただ一回だけ「お褒め」をいただいたことがある。中学二年の生徒の親が「娘が学校に行けない」という心配で相談に来た。私は「ゆっくり休ませてあげなさい。学校がすべてではないでしょう」と応じたのだが、その話を聞いて、W先生は、一言「適切な助言でした」と評してくれた。私はうれしかった。
 W先生は、いつもポケットにクルミの実を忍ばせ、それを取り出して見せながら、話をする。 
 「皆さん、このクルミの実を、道具を使わないで割るにはどうすればよいと思いますか?私たち人間の手では絶対に割れないでしょう。でも、この実を土の中に埋めておくだけでよいのです。大地のぬくもりと潤いが、この実を自然に割り、発芽を導いてくれるのです。子どもを育てるのも同じです。私たちのぬくもりと潤いこそが、子どもの可能性を導き出すことを忘れてはいけません」
 W先生の自宅には大きな庭がある。しかし、その庭にはほとんど手を入れない。「荒れ放題」で雑木林のようだった。それが「自然の姿」であり、近所の「外聞」などいっこうに気にしない姿勢が、W先生の生き方だったと思う。ある時、野良猫が迷い込み、自宅の押し入れの中で出産したという。それでも、先生は自然に任せていた。涼しい顔で、「『飼う』のではなく『同居』しているのです」と言う。「猫は利口ですよ。妻と食事をしていると、そばに来ますが、絶対に食卓に飛び乗ったりしません。私たちが餌を提供するまで、じっと待っているのです。このまえなど、二階の寝室に来て激しく鳴くものだから、何だろうと思って階下に降りてみると、ガスストーブがつけっぱなしになっていました。『危ない』と教えてくれたんですね。もしかしたら、猫の方が人間より利口かも知れません」
 私自身、五十に近くなり、どうにかW先生の傍らで親しく話せる立場になった。
ある夏の蒸し暑い日、その日もW先生は白のワイシャツに黒ネクタイ、黒ズボンという服装で会議に出席した。終わった後、簡素なパーティーが開かれることになっていたので、私は、年来の「謎」をどうしても解き明かしたいと思った。
 本当に、W先生は「おしゃれ」なのだろうか。どうしても、私にはそうは思えない。W先生には、「色を選ぶ」などという気持ちがはじめから存在しないのではないか。W先生にとって、「自分自身を色で着飾る」ことなど思いもよらない。自分のことを考えるまえに、まず「相手」が存在している。その「気持ち」を受け入れ、理解するためには、自分のことなど考える余裕がないのだ。W先生自身の「色」は、「白か黒」、そのいずれでしかないのだ。シャツは白、それ以外は黒、自分を着飾るエネルギーがあるなら、それを「相手」のために費やしたい、それがW先生の本心ではないだろうか。だからこそ、W先生は、庭の樹木(クルミ)や野良猫との「交流」が可能なのだと思う。
 パーティーもそろそろ終わる頃、私は思い切ってW先生の席に近づき、ジュースを注ぎながら、年来の「謎」を問いかけた。私の考えを、先生はじっと聞いていたが、最後に一言、微笑みながら答えた。
 「あなたの考えは、当たっているかも知れませんね」(2006.9.7)
不登校は文化の森の入口不登校は文化の森の入口
(2006/11/20)
渡辺 位

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「美空ひばり節」考(未完)

2008年1月8日(火)晴
 すでに使われなくなってしまった言葉を「死語」という。だとすれば、すでに使われなくなってしまった語音(構音・調音)を「死音」と言ってもよいかもしれない。私は、ここ数年来、流行歌手の「語音」が気になってしかたがない。「ガ・ギ・グ・ゲ・ゴ」と文字表記される「語音」は、「岩盤」(ガ)「銀世界」(ギ)「愚者」(グ)「玄関」(ゲ)「胡麻豆腐」(ゴ)など「語頭」にあるときは「閉鼻」状態で構音するが、「長い」(ガ)「銀河」(ガ)「なぐさめ」(グ)「道具」(グ)「嘆き」(げ)「散華」(ゲ)「名残」(ゴ)「卵」(ゴ)など「語中・語尾」にあるときは「開鼻」状態で構音する。いわゆる「鼻濁音」である。この「鼻濁音」が「死音」になりつつあるのではないか。かつての流行歌手、邦楽の唄い手のほとんどは、この「鼻濁音」を常用していたと思う。(例外・ディック・ミネ、広沢菊春)「流行歌の女王」といわれる美空ひばりの魅力は、この「鼻濁音」の美しさにあった、といっても過言ではないだろう。「いつかまた会う、指切りで、笑いな(が)らに、別れた(が)」(「悲しき口笛」)の「ガ」が「鼻濁音」だからこそ、彼女の歌声は澄みわたるのである。しかし、最近の流行歌手はこの「鼻濁音」を常用することができない。あるフレーズでは「開鼻音」(鼻濁音)なのに、別のフレーズでは「閉鼻音」になってしまう、といった粗雑さが目立つ。都はるみは、「寝化粧」の「ゲ」を「鼻濁音」で歌えるのに、「おんなごころ」の「ゴ」は「閉鼻音」になってしまう。(「北の宿から」)極端な例では「涙の連絡船」、「汽笛が、汽笛が」と何回か繰り返される「ガ」が、その時によって「開鼻音」になったり「閉鼻音」になったり、という状態なのだ。実にもったいない話である。その他、森新一、五木ひろし、八代亜紀、石川さゆり等々、例を挙げればきりがない。流行歌の真髄が「歌詞」にあるとすれば、この「鼻濁音」を常用できるかどうかが歌手の「実力」(歌唱力)を見極めるポイントになるのではないかと、私は思う。洋楽では、もともと「鼻濁音」は「死音」に近いので、そのような問題は論外だが・・・。
昔、綴った「雑文」(未完)を思い出した。

詩人サトウハチローは,少女時代の美空ひばりを評して「化け物」といったそうだが,まさに美空ひばりの芸術は「化け物」のそれに他ならなかった。当時の子どもたちは,川田孝子,古賀さと子,小鳩くるみ,松島トモ子らの童謡をレコードやラジオで聞かされて育っていたのであり,美空ひばりの流行歌などを楽しむことは御法度であった。美空ひばりといえば,もっぱら劇場や映画の中で中年の大人を相手に,濡れ場のB・G・Mなどを唄っていたのからである。(松竹映画「鞍馬天狗・角兵衛獅子」<昭和26年>の挿入歌「京の春雨」は逸品である。)
笠置シズ子は自分の持ち歌を美空ひばりの方が巧みに唄うので,共演を嫌がったということだが,少女時代の美空ひばりは当時の流行歌手の持ち歌を本人以上にうまく唄いこなすことができた。松竹映画「悲しき口笛」<昭和24年>の中で唄う「湯の町エレジー」は近江俊郎の作品に優るとも劣ることはない。
美空ひばりの最高傑作に「りんご追分」<昭和27年>だとか「悲しい酒」<昭和41年>,「哀愁波止場」<昭和35年>,「お祭りマンボ」<昭和27年>,「波止場だよお父つぁん」<昭和31年>などを挙げる人は多いが,「角兵衛獅子の歌」<昭和26年>や,「流れのギター姉妹」<昭和27年>,「娘船頭さん」<昭和30年>を挙げる人が少ないのは何故であろうか。
思うに,美空ひばりは「今,この一曲」に全存在を賭け,全力を傾けて唄う歌手であった。したがって,「美空ひばり節」はどの作品をとっても,最初の吹き込み(初盤レコード)の出来映えを超えることができなかったのである。いいかえれば,「美空ひばり節」はどの作品をとっても「この一曲」(初盤レコードなど)にしか存在し得ないものであり,以後の作品はその亜流でしかなかった。たとえ本人が唄ったものであれ,吹き込み当初とは比べものにならないほど色褪せたものになってしまうのである。通常の歌手が「この一曲」を歌い続け,次第に光り輝く作品に仕上げていく(例・「別れのブルース」・淡谷のり子)のとは対照的である。
美空ひばりにとって「歌は命」であり,しかもそれは最初に唄う「この一曲」以外には考えられなかったのだと私は思う。ときおり,テレビの歌謡番組などで,昔の持ち歌を唄うことはあったが,それはもはや「歌の抜け殻」でしかなかった。リクエストされて,「越後獅子の歌」「悲しき口笛」「東京キッド」などを唄うことがあったが,吹き込み当初の作品を知る者(私)にとっては,耳をふさぎたくなるほど興醒めな作品でしかなかった。そのことは,誰よりも美空ひばり自身が感じていたに違いない。だからこそ,彼女は「角兵衛獅子の歌」や「流れのギター姉妹」「娘船頭さん」をあまり唄わなかったのではないか。その結果,そうした作品があることを知らない人が増え,最高傑作に挙げる人が少なくなっているのではないか。
注目すべきは,「美空ひばり節」は少女歌手「美空ひばり」の誕生とともにすでに完成していた,という点である。詩人サトウハチローが看破したのは,まさにこの一点に他ならず,わずか十二,三歳の少女が中年男女の色恋をみごとなまでに描ききるからこそ「化け物」に違いないのである。山の手に生活する文化人やその子弟の多くは「気持ち悪い」という反応を示して拒絶した。川田孝子の「みかんの花咲く丘」の方がよほど上等の文化だと感じていたに違いない。
美空ひばりは,中年になってからも「ひばりちゃん」という愛称で親しまれたが,それは彼女がとりたてて可愛かったからではあるまい。「東京キッド」「悲しき口笛」「あの丘越えて」「たけくらべ」「伊豆の踊子」など,出演映画の映像を見ても,子どもらしいあどけなさや,娘らしい初々しさはあまり感じられず,浮浪児や芸人の哀愁が漂うばかりである。したがって,美空ひばりを「ひばりちゃん」と呼んだのは,同世代の少年少女などではさらさらなく,戦後の下町で復興に夢を託した商人,庶民感覚の成人男女に他ならなかった。「貧しさ」こそが「美空ひばり節」の根幹であった筈なのである。
「美空ひばり節」の命は彼女の「声音」である。「七色の声」と評された時代もあったが,彼女の母親も見抜いていたように,「美空ひばり節」の真骨頂は彼女の「地声」である。デビュー当時から,彼女の「地声」は大人の「地声」に近かった。というより,「九段の母」や「東京ヴギウギ」「湯の町エレジー」を唄っても,少しも不自然さを感じさせず,むしろ大人の声よりも魅力的な響きをもった「声音」だったのである。彼女の持ち歌に即していえば,「越後獅子の歌」「角兵衛獅子の歌」「悲しき口笛」「東京キッド」はすべて「地声」である。努力家の彼女は「山が見えます,ふるさとの」の「が」,「わたしゃ,越後へいつ帰る」の「ご」,「笑いながらに,別れたが」の「が」などを鼻濁音で唄うのを忘れない。この共鳴が彼女の「地声」をより鮮やかにしていることは言うまでもない。さらに言えば,この「地声」は彼女の成長(変声期)とともに微妙に変化しはじめる。高音部が「地声」では出しづらくなったのであろうか,「お祭りマンボ」の「そーれそれそれお祭りだー」という一節あたりが,彼女のもっとも魅力的な「地声」の最後であったように思われる。珠玉の名品「流れのギター姉妹」や「娘船頭さん」では,明らかに「裏声」で高音部を唄うようになった。彼女の母親はその「裏声」を嫌ったといわれているが,「子どもはいつまでも子どものままでいてほしい」という親心のあらわれであろうか。いずれにせよ,「美空ひばり節」は,高音部を「地声」で唄えなくなった時点で終焉を迎えることになったのである。かつて評論家竹中労は美空ひばりを「中性歌手」と評したが,「裏声」を制限された美空ひばりには,思う存分に「女性」の歌を唄ううことができなかったに違いない。
美空ひばりの「地声」は,成人するとともにますます「太く」「低く」なり,男唄は「地声」,女唄は「裏声」でという安易な使い分けが始まる。以後は,かつての栄光に支えられただけの,並の流行歌手になりさがってしまったのである。最高傑作といわれる「悲しい酒」などは断じて「美空ひばり節」ではない。後輩の都はるみや韓国の女性歌手文珠蘭などの方が,はるかに感動的に唄いこなすことができることを銘記すべきである。「ある女の詩」(昭和47年),「花と竜」(昭和48年),「時雨の宿」(昭和57年)などは,晩年の「美空ひばり節」といえなくもないが,場末の大衆演劇の舞踊ショーでしか聞くことができない作品に過ぎない。
さて,美空ひばりの芸風は,デビュー以来ほとんど変化していないという点にも注目しなければならない。「美空ひばり節」がすでに完成した形で誕生したように,彼女の演技力もすでに完成した形で芸界(銀幕)に登場した。というより,彼女の演技力などは初めから皆無に等しく,声と同様に「地」のままで芝居をしていたという方が正確かもしれない。映画「悲しき口笛」では「チビ」と呼ばれる子ども役を演じていたが,竹中労のいうようにその性別は判然としなかった。以後,松竹映画「鞍馬天狗・角兵衛獅子」,東映映画「ひばりの森の石松」「ひばり十八番・お嬢吉三」「ひばり十八番・弁天小僧」「天竜母恋笠」など性別不明の役どころは枚挙にいとまがない。新東宝映画「競艶雪之丞変化」では,男女取り混ぜて三役を演じ分けているほどである。これも彼女のプロデューサーであった母親の好みであったことには疑いないとはいえ,戦後庶民の男女を問わないニーズに応えようとした試みに他ならない。戦後庶民は,完成された「美空ひばり節」を唄う一芸人の「地」の姿を,映画という場面を借りて「のぞき見」していたのである。したがって,映画作品として耐えられる作品を強いて挙げるとすれば,美空ひばりが「地」のままでも演じられる内容のものであり,「東京キッド」「悲しき口笛」そして「伊豆の踊子」あたりであろうか。その他の作品は,戦後娯楽の作品として「なつかしい」程度の感動しか呼ばない,色褪せたものになってしまった。庶民は当時の「ひばりちゃん」を見て,それを楽しんでいた過去の自分の姿に感動しているのである。
美空ひばりの「中性的芸風」はどこに起因するか。彼女の母親の要求を別とすれば,浪曲師広沢虎造と瓜二つであることに注目すべきである。「美空ひばり節」の真骨頂はその「声音」にあるが,その節回しは浪花節そのものに他ならないのである。(未完)(1984.6.22)
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TBSテレビ「被取締役(取り締まられ役)社員」

2008年3月31日(月) 雨のち晴
午後9時からTBSテレビ「被取締役(取り締まられ役)新入社員」視聴。採用試験で最も成績の悪かった若者が、意外にも(役員待遇で)「合格」、仕事の内容は「ヘマをすること」「チームに迷惑をかけること」だという。会長のもくろみでは、自分のことばかり考えて連帯しようとしない(お互いに足を引っ張り合っている)「課員」たちの中に「超一流のダメ人間」を入れれば、まず①課員の「自尊心」が満たされる、②「課」の名誉のために「ヘマ」「ミス」を修復しようとする、③その結果、本当のチームワークが生まれるのではないか、ということであった。入社当日から、若者は「ヘマ」を繰り返し、課員たちは「てんやわんや」の有様で、その対応に追われる。事態は、会長の思惑通りに展開、その「ヘマ」が「怪我の功名」になる「おまけ」もあって、「課」の業績は、うなぎ昇りに向上した。「課」(チーム)は、「いじめ撲滅・教育広告」のコンテストに応募、若者の体験をヒントにした「いじめられっ子、世にはばかる」というキャッチコピーを考案、自信満々で会場に臨んだが、またまた、若者の「ヘマ」で落選、チームの努力は水泡に帰した。若者は耐えられず辞表を出すが、課員のまなざしはどこか温かい。会長の評価によれば、「課」のチームワークは盤石になり、もう心配ないという。そしてつぶやく。「君は超一流のダメ人間だが、そのダメがチームワークを育てたのだから、チームワーク以上の『価値』があるのではないだろうか」あいさつを終えて退社する若者に向かい、「君は我が社にとってまだまだ必要、今度は他の課(名古屋)に行って『もうひと働き』してもらう」と、宣った。困惑する若者、とまどいながら名古屋の社屋に入ろうとする場面でエンディング・・・。
 ドラマの眼目は「いじめられっ子、世にはばかる」というキャッチコピー、「ダメというところに『価値』がある」という理念であろう。競争社会の勝者は、敗者の存在を前提にしている。敗者がいなければ、勝者は存在できないのだ。つまり勝者にとって、敗者は「必要不可欠」な「価値」をもっていることになる。とはいえ、その「価値」が「かけがえのないもの」として評価されることは稀有である。それゆえ、このドラマもまた稀有な作物として評価されてよい、と私は思った。

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「小説平家」(花田清輝・講談社・昭和46年)

2008年3月27日(木) 晴
「小説平家」(花田清輝・講談社)のうち「冠者伝」読了。「平家物語」の作者は誰かという謎を「平家物語」の叙述内容・文体に即して解き明かし、さらにその人物の「伝記」を綴ろうとした作物である。この著者の作物は、私自身が学生時代、大いに親しんだものだが、独特の言い回し(文体・決まり文句)の他はほとんど憶えていない。その「言い回し」とは、いわく「まあそんなことはどうでもいいのであって」とか「それかあらぬか」とか「対立したまま統一する」とかいうものであったが、その意味・論脈を理解することは、ほとんどできなかった。還暦を過ぎた今、あらためて読み直しても、当時とあまり変わらない。著者にとって「読者にわかりやすく書く」などということは思いもよらぬことであり、自分の書いたことを読者が理解できないにしても、それはひとえに読者の勉強不足によるものという姿勢が貫かれている。それは「思い上がり」というより「知識人の誇り」として貴重だと私は思う。「冠者伝」の中にも、例によって、決まり文句が多用されていたが、「平家物語」の作者が誰であったのか、浅学非才の私には、いっこうに判然としなかった。まあ、「徒然草」の作者・卜部兼好の「書き誤り」が混乱(謎)の要因になっているらしいことは解ったが、「そんなこと(兼好批判)はどうでもいいのであって」、要するに、著者が「海野小太郎幸長」(信濃前司行長ではない)を作者であると断定した理由、論拠だけを率直に述べ、著者の目論み通り、その「伝記」を綴ればよかったのではないか。しかし、叙述の方向は「あっちこっち」に飛び回り、「話が飛ぶ」たびに、私の頭は混乱する。結局、「平家物語」の作者「海野小太郎幸長」という人物は、どのような立場、どのような思想・信条の人だったのか、彼がどのように生まれ、どのように生き、どのように死んだのか、「わからずじまい」だった。だが、それはひとえに私自身の勉強不足のためであろう。精進して、次の章を読み進めたい。

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